境界線の向こう
僕は君が好きだ。変な奴だけど、そこが尚更良いのかもしれない。
初めて会ったのがいつなのか、正確には覚えていない。君を変な奴だと思ったのは最初からだけど。
山が好きな僕がよく行く秘密の場所。町を一望出来る見晴らしのよい切り立った崖。君と初めて会ったのはそこだったね。
いつものように僕がそこに入った丁度その時、君は突然目の前に現れた。
空間を切り裂いたかのように。
「ど、どこから来たの?」
普段内気で、女の子に話しかけるなんて出来なかった僕が、その時は驚きのあまり思わず声をかけてしまった。それほどにシュールな光景だった。
君は僕を振り返ったかと思うと、全くの無表情で、
「境界線」
とだけ答えた。
それが何なのか、僕には想像もつかなかったけど、僕は君に心惹かれてしまったんだろう。君に色々な質問をしたよね。
君は淡々としか喋らなかったけど。
思えば、君との関係性は、その時から始まったんだろう。
僕は君にちょくちょく会いに行くのを止めることが出来なかった。
君はよく泣くやつだ。最初に泣かれたときはかなり驚いた。
あの日は確か、手ぶらで来るのはまずいと思って、とりあえず何か持っていく事にしたんだ。けど、何が良いのかさっぱりわからなくて迷った覚えがある。
とりあえず食べ物だ。そう思い、山に登る前にスーパーでリンゴを買った。
何となく、リンゴが似合うんじゃないかと思ったんだ。
歩くには少し遠いから自転車で山のふもとまで行き、そこから歩いて登る。それほど急な山ではないので、慣れた僕には傾斜なんて何ともない。
早く君に会いたくて、早足に登るようになったのはその日からだったかもしれない。
崖まで続く道は人が通った形跡があまりなく、とてもわかりづらい。だからあの場所は僕しか知らないと思う。
僕が到着すると、君は既に崖にいて、木にもたれかかって座っていた。
僕が声をかけると、君は視線だけ僕に向けた。
間もなくビニール袋に気付いたのか、僕が手に持っているものを指差した。
「それは?」
男のような喋り方は君にとことん似合わなかった。
僕はビニール袋を持ち上げて、答えた。
「リンゴだよ。手ぶらじゃちょっとって思ってさ。リンゴ好き?」
「知らん」
「え? 食べたことないの?」
「そうだ」
「じゃあ食べてみなよ。美味しいよ」
僕はリンゴを袋から一つ取り出し、君に手渡した。その時に手と手が触れ合い、僕の胸は鼓動を速めた。まったく、安っぽい心臓だ。
君は手に持ったリンゴをしげしげと眺めながら、僕とリンゴを交互に見詰めた。
「どうやって?」
君はいつも短文で喋るから、僕は言葉の意味を探るのが大変だった。嫌いな作業じゃないのだけれど。
多分、どうやって食べるのか、ということなんだろう。君のズレっぷりにはつくづく閉口するが、僕はリンゴを取り出し、彼女に見せた。
「そのまま齧れば良いんだよ」
言って、実演してやる。咀嚼して飲み込むと、君はようやくそれを食べ始めた。
「美味」
一口食べた感想が、それだった。素直に嬉しい。
君が泣いたのは、その直後だった。
「ど、どうしたの?」
僕は慌てて尋ねた。
「お前にとって、涙とは何だ?」
「へ?」
逆に問い返され、思わず言葉に詰まった。
「えっと……。悲しい時とか、嬉しい時に流すもの、かな……?」
自信を持って答える事は出来なかったけど、多分一番無難だと思う。
「そうか」
「それが、どうしたの?」
涙を流したままの君を慰めるのが先かと思ったけど、何となく気になった。
「お前の意味とは違う」
それは涙のことを言っているのだろうか?
その後君はすぐに泣き止み、いそいそとリンゴを食べ始めた。
泣いている姿を見た後に不謹慎かもしれないけど、やっぱり似合っている。
艶やかな長い黒髪と対照的な、病的に白い肌。そこらの木の枝より細いんじゃないかというくらいの腕や脚。透き通るような瞳。美しいラインを描く鼻。口調は男っぽいのに仕草は妙に女っぽい。
少しずつリンゴを口に含んではシャリシャリという音を立てて噛む。それだけのことさえ魅力的に思えてしまうのは、僕が君を好きなったからなのだろうか。
僕は君がリンゴを食べ終わるまで、ずっと見詰めていたかもしれない。
その日以降も、何か差し入れを持っていくと君は泣いた。
僕はその度焦るけど、君は「気にする必要は無い」としか言わない。
涙の意味が違う――という意味なのかはわからないが、多分そうだろう――という言葉が気になったけど、何となくそれは言えないでいた。
その後、色々差し入れを変えて試してみたら、冗談で買った風船を気に入ったのがまた面白かった。
そして、僕はいつも通り山を登っている。目的地は僕と君だけが知っているあの丘。目的は、君。
片手にはビニール袋を提げている。中には一緒に食べるためのリンゴと、君が好きな風船が入っている。
そりゃ風船を好きな事については変だと言う気は無い。けど、持って来る数が多ければ多いほど良いだなんて、君は本当に変わっている。
いつものように木々をかき分け、君へ通じる道を作る。もうすぐ君に会えると思うと、思わず足が軽やかになるのを白状しよう。
「一体いつまでかかっているんだ!」
叱責のような声が聞こえて、思わず僕は立ち止まった。
「ん……。もう少し」
君の声。誰かと喋っているのいるのだろうか。君を独占していたような気でいた僕は、何となくショックだった。
「もう待てん! 今日中に運ぶのだ!」
何のことだろう。
「ん……。わかった」
「必ずだぞ! わかっておるな!」
その言葉で、一方的に会話は終わったみたいだ。
何か得体の知れない不安に駆られ、出て行って良いものか悩んだけど、やっぱり行く事にする。
草木をかき分けてようやく君と対面する。照れたように頭を掻いて、
「やぁ、待たせてごめん。風船、いつものところに無くてさ。別の店探してたらちょっと遅くなっちゃった」
何となく、君に嘘をついてしまう。
「別に」
相変わらず君は素っ気無い答えを僕にする。でも、君が気にしていないようなので、少し安心した。
「今日も風船膨らますところから?」
「して」
「了、解っと」
僕は風船を取り出し、一つ一つ膨らます。
実はこれが一番辛い。彼女の要望に応えて数を増やしていると、いつの間にか毎回二ダースの風船を膨らまさなきゃならなくなっていた。
正直言うとかなり疲れるのだが、君が期待のこもった目で僕を見ているから手を抜けなくなってしまう。
大分時間をかけて全ての風船を膨らますと、
「ご苦労様」
風船の一つを胸に抱え、君が淡々とした礼を言った。いつものことながら、女の子に礼を言われるのは悪い気はしない。
君と並んで座る。町が一望出来るここは、僕と君の特等席だ。
「ねぇ、あの風船、いつもどうしているの?」
ちょっと気になって聞いてみる。
「何故?」
「ちょっと気になったから」
正直に答える。嘘をつく理由も無い。
「秘密」
「そっか」
話が、途切れる。
何となく気まずさを覚えて、いつものように他愛も無い話をしようとしたとき、君は急に泣き出した。
今日はいつもと泣くタイミングが違ったことに今更ながら気付き、僕は久しぶりに焦燥に駆られた。
ただでさえ女の子の扱いに慣れていない僕だ。
「お前たちが泣くのは悲しい時と嬉しい時だったな」
「え? うん、そうだけど、それがどうしたの?」
何故そんな質問をされたのかわからなかった。
でも君は変わらない口調で、
「我々が泣くのはどのような時か教えてやろう」
しかしいつになく省略の少ない言葉をくれた。
「我々が泣くのは、相手を奴隷と認めた時だ」
「え?」
その言葉の意味を理解するより早く、崖を落下していた。
強い力で背中を押されたから。
「さらば」
その言葉を聞いてすぐ、浮遊感は無くなった。
風船の用途はすぐにわかった。
境界線を越えた先の世界。それは、二酸化炭素を主食とし、酸素を毒とする者たちが住む世界だった。
つまり、風船はこいつらの食料だったわけだ。正確に言えば、風船の中身の、僕の吐いた空気が。
君は僕のような人間を運ぶために、奴隷の中から培養されて出来たんだってね。
僕の体には無数のチューブを通され、そこから栄養を送られる代わりに、酸素を吸って二酸化炭素を吐いて送り返さなきゃならない。そのような在り方を拒むことも出来ない。
生かさず殺さず。
確かに今の僕の置かれている状況は、奴隷そのものだ。
君は僕をずっと奴隷だと思っていたわけだ。そのことがショックで、最早ここから抜け出す気にもならない。
境界線を、越えてはならない。
僕のようになりたくなかったら。
作者あとがき
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