「雪鳴り」 神矢弦彦



 ずっとその肩によりかかっていたかったけれどそれも出来そうにない。ほんとうはもうじゅうぶんに満たされているはずなのに心のすみのほうがどこか隙間に入る冷気のためつめたくなっているように感じられる。そうでなくても今は夜を迎える刻で地からさむさが湧き風がそれを配んで人々の頬を切りつけるように過ぎるのだからせめてわずかでもいい、温もりが欲しい。それでもぼくはどうしても温もりから離れなければならずそっと距離を置こうとした。小指の感覚がなくなっている。段々二人のあいだに空きが作られるのをおぼえながら手を握ったり開いたりしてしびれをなくそうとしていると途端に涙がこぼれてしまい止めることが出来ない自分に戸惑う。ぼくは自分の決定を拒んでいる。たぶんこのまま目の前にある十字路を左に曲がってしまうならぼくはきっとこわれるに違いない。なぜに対する理由をこたえることはできないが確実にこわれてしまう、そんな気がしてならなかった。ついに十字路まで来てしまった。ぼくは今、ここでさよならの一言を渡さなければならない。からだがふるえる。ぼくは軽く目をとじてふかく呼吸をして息をととのえようとするが中々上手くいかない。その時、もう少し歩こうと云う提案がなされた。むろん、ぼくからではなかった。
 十字路を曲がらずにぼくらはまっすぐ路を行く。この時二人のあいだにすでに空きはなく互いの手がふれる処まで近づいていた。ただ何となく硝子板が一枚あるような気分は拭えなかった。温もりを感じるにはまだ遠すぎるのに心には安堵があるのが不思議だ。この距離は心地良くも悪くもないけれどその分安定しているのだと思った。ぼくはこの距離をまえに一度かんじたことがあった。年したの女の子に好かれたことがあった。ぼくは何となくその子と付き合っていた。特に楽しかった訳ではないけれど誰かと一緒にいることは死とか現実とか昔とか今とかそんな考えを一括りにしてどこかへやってしまえるから良かった。だけど長くはつづかなかった。彼女はぼくに飽きたらしかった。ぼくはそのことを云われてじゃ別れようと返事をした。そうしたら彼女は最後に散歩をしようともちかけ、二人で近くの公園に行った。長椅子に座った。彼女は煙草をとりだしてすっと煙を飲んでは唇をすぼめて細く吐きだした。ぼくは煙草を吸わないから煙が吐きだされる度咳こんでしまいそうになって仕様がなかった。彼女は云った。弱いね。そのとき感じた距離にに似ている。もうすぐ次の十字路に着く。どっちへ行くのか聞くことができず黙っている。時々その顔をちらり盗み見ると鋭さを持つ目はただ前を向いていた。
 次の十字路も曲がることなくまっすぐ進むことになった。いつのまにか手のしびれも消えていた。ゆっくりと灯が流れているのを見ながら歩けばやがて広場にでた。月も星もない闇の下にその場処は赤を基とした様々な色で浮かびあがり光がおどっているのが見事である。ぼくたちの他にも人はいくらかいて誰も互いに干渉しないことをきまりとしているように見えた。邪魔するもののないのを良いことに風は余計に戯れる。しかし人々はそれにさえ興味を持たないようにしているふうに一人なら下を向き、ふたりなら互いの顔を向き合わせていた。彼らが輝く宝石を曇らせる致命的なきずなのではないかと思えた。うすらさむい思いが心を満たした。その時、ぼくらはふたりで歩いていたのではなくひとりずつが並んで歩いていたんじゃないかと考えた。心のひえがさらにつのった。目に不安を溜めて顔を向けると穏やかともけわしいともとれる表情が浮かんでおり瞳にはささやかなかげがさしている。そのかげのためにより或る種の貴さが漂うのをぼくは感じない訳にはいかない。やはりぼくは離れられないのだろうか。そんな問いが頭をよぎるのを他人の頭を見る心地で考えながら広場を抜けた。
 光から逃れるように周りは次第に暗くなった。冷気に心に満ちるのを止める術がもうぼくにはないことを受け入れ始めていた。だったら、せめて温もりを与えては下さらないのか。誰に向かう訳でもない言葉をあえて呟きとして口にした。神も霊も、ある高みにある精神でさえこの心の内を占めているさむさを除くことはできない。わかっているはずなのに、云わないという選択をしなかったのは今一番近くにいる人に欲しかったからなのかも知れない。黙っているのを見るときっと耳には届かなかったのだろう。それでいいのだ。あいかわらず風は飛び交っては一つになり二つに分かれその片方が三つの細い道に入ったと思ったら、一番弱そうだったのが、勢いのあるやつの中にとりこまれる。気付かぬうちに、ぼくらはひどく迷図的な裏路にいた。明かりは二三窓から漏れる病弱な光があるだけで両脇にそびえる建物のあいだから見える夜空の闇よりもここの方が重い暗さに満ちており息苦しく感じる。軽く目眩をおぼえたが耐えて立ちながら髪を掻きあげる。汗がシャツの下をしくりとぬらした。ぼくらは互いに黙りこみ、抜け出すことを諦め更に奥へ行く思いで歩いていた。一歩ごとに地面をつきぬけ落ちていくようだった。しかし、いつからだろう、ぼくは服の袖に必死にしがみついていたので體のすべてが沈みきってしまうことはなかった。硝子板の存在はこんな時にも感じられる。ようやく地面が堅くなったのでぼくは微かに恥ずかしく思いながら離れた。けれども、右手だけは許すかぎり袖を掴んでいた。何も云わないのでそのままでいた。どのくらい歩いたか知らないが、入って来た時と同じように、気付かぬ内に抜け出していた。それでも右手を離そうとは思わなかった。
「ふるえが伝わってくる。具合でも」「いいえ、そうでは無いんです。ただ、」「ただ、何だい」「さむいだけですから」
 さむいだけ、そうただそれだけだ。自分の手がふるえていることは云われて初めて気が付いた。止めようと手に力を加えると、歩きにくいからもうほんの少しゆるめてくれないかとやさしくとがめられた。離せと云われなかったことがうれしくも思われ、下を向いて右手を心持ち開く。左手も先刻からつよく握っていたのをしっかりと伸ばした。
 真夜中を告げる音がした。人の姿を見ることが難しくなった。少ない人も皆近くの店に入り酒を楽しんでいる。光の灯る場処はすべて飲み屋である。その前を通る度にぼくらの影がのびていき、過ぎる度に縮んでいった。影が長くなると自分がその影に移ってしまう気がした。
 店のひとつから一人男が出て来た。かなり醉っていることがわかるほど足もとがおぼつかずにいた。こちらのほうに向かっており僕と目が合うと、にやりと含んだ酒が端から垂れる唇を品無くまげた。おめえはなんでそんなところにいると云わんばかりに目をちらちらさせていた。しかし、その目をぼくから隣へやると火照って赤くなっていた顔は一気に血が失せた。おびえに背を丸くし、急いでぼくらの横を抜けようともつれる足を必死に動かしていた。男とすれ違ってすぐに低いうめきと共に倒れるような音がした。起き上がった気配は一向しなかった。ぼくは後ろを向こうとすると、気にしてはいけないと云われた。
 ぼくらはまた広場に戻って来た。先ほどより人はずっと少なかった。長椅子にふたり、外灯の下にひとり。その人たちもしばらくするとどこかにいってしまった。様々な光はすでに消え失せ、残ったのは青白いぼうとしたのが点々と灯いているだけであった。さびしい臭いがした。ぼくらは立ち止まった。
「もう、気はすんだのかい」「ええ、なんだか歩きつかれてしまいました。こんな風に歩くことももうない気がします」
 掴んでいた袖から手を離し、互いに向き合いながら話をした。
「體が冷えきってしまったね」と手をとられた。「いや、そうでもないらしい」
 手をとっているその手のほうがよほど冷たかった。ぼくは少しの抵抗もしないままに、何か云おうと言葉を選んでいた。しかし、どの言葉も今のぼくの気持ちをあらわすには軽すぎた。ぼくはただ待っていた。そして、手を引かれた。體を全て預けるかたちになった。腕は背中に回された。温めてあげようと呟く声が頭の上からした。温もりが體に伝わってくるのが知れた。心に達し、満ちていたさむさが溶けていくのを感じた。これでいい、とぼくは二回繰返した。
 しかしだった。ぼくはその胸を押して後ろへ退いた。じっと見ている目に驚きを感じている様子はなかった。
「不安、なんです。何だか、あれだけ温もりを欲していたのに」「やはり、まだ私と来る刻ではないらしい」「そう、みたいです」「帰ろう。送ろうか」「いえ、大丈夫ですから」「そうか」
 ひるがえり、歩いてゆく姿はぼくが一度まばたきをしたときにはもうなかった。温もりが自分の内から逃げていくのがわかる。心にもさむさが戻ってきた。
 帰ろうと思い、歩きだすと頬に冷たいものがあたる。
 雪であった。
 空を見あげると彼方からためらうことのなく銀の筋を描いて落ちてくる。その時、氷が水の中で割れるときの音が消えていかずにいつまでも鳴っているように耳の奥で感じた。最初は何かと思ったが、すぐに正體はわかった。
 雪が鳴っているのである。
 ぼくは雪にさむさをとられぬように急いで走った。明日はきっと積もるに違いない。




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