「無題:のびてゆく雪道、尋ねる理由」楓 里庵

 速過ぎる冬の日没は白と黒に埋もれたパレットだった。
 蒼い宵闇とアスファルトを濡らすシルバーホワイトの雪は、五月の憂鬱な日差し、夏の気だるさを孕む熱気、急流のような秋風を塗り潰し、街を冷たい色に染め上げていた。
――木炭のデッサンになりたいな……
 画塾を出ると、ひんやりとした風が絵里子の頬を刺す。頬から血管を通してその冷気が心に伝わってくる。高校受験まで、あとひと月。気持ちに余裕の欲しい時期だ。
 あれから死に物狂いで己の右手に絵筆を、鉛筆を、柳の木炭を握ってきた。自分はこんなにも絵が大好きなんだ、と言い聞かせては七ヶ月の内に何度も制服をクリーニング屋に、何度作品をコンクールに出した。
……それでも、「あいつ」、海川晶には敵わなかった。
 晶の作品が大賞ならば、彼女のものは佳作か特別賞だった。周りはそれでも立派だと励ましたが、それでも気がすまなかった。晶を超えるという目標に至らなかったからだ。絵里子が落胆する度に、彼は義務のようにおどけた様子で話しかけて来た。もっと力抜いたら、という意味を込めて。しかし、それを突っぱねるのが彼女の役目でしかなかった。相手の意図を汲み取る余裕など無かった。寒さが強まれば強まるほど、身体の中が黒く潰されていく。右手が震えてくる。胸の中が揺らいでいるのが自覚できた。
 受験生ゆえに襲われる不安のせいもあるのだろうが、彼女自身、これ以上深みにはまりたくはなかった。ちらちらと粉雪の降りかかるの中、絵里子は鞄を持った右腕を軽く振りながら一人ごちた。
「えーと、まずひとつ、今年のクリスマスプレゼントはW&Nの絵の具セットになりそうです、
 それともうひとつ、久々に先生から静物デッサン褒められました。あとは……」
心が冷えてきたら、出来る限りいいことを考えるようにする。そう画塾の講師から教わっていた。身近な幸せを噛み締めれば、心に余裕が生まれると。
「それからそれからっ、えーと……」
 その時、背中にぽん、と何かが触れるのを感じた。振り返ってみると、
「明石さん、歩道の真ん中で鞄振り回すのはやめよーよ」
 現在の精神状態で最も会いたくなかった人物が、そこにはいた。
「う……海川っ!!!何で……っ!!!」
「散歩の帰りー。あ、赤貝さんここの画塾に通ってたんだ。てっきりそーゆー所に通ってないもんだと思ってた」
「……そーよね、そー思うよね。あんたほど絵が上手いわけじゃないんだもん。……ところで、卒業まで日が無いのにまーだクラスメイトの名前も覚えない気?」
「五時半でこんだけ暗いんだもんねー、ちょっと中学生だけってのもアレだけど、公園行かない?どうせ家近くでしょ?」
 晶の耳に彼女の苛立ちの声は届いていないのか、彼は絵里子の腕をぐいと引いて前進し始めた。
「ちょ、ちょっと、どーするつもり!?ただでさえこっちは大荷物なのに!!」
 そう言って左肩にかけたカルトンの入った袋を強調するように上下に振ってみせても、彼は目もくれずに住宅街に向かって歩いていく。
「こればっかりは楽しいから!!夢中になれることに天候なんて関係ないよ!」
「じゃあ他人の都合は関係ないの?これから家帰って勉強だってあるのに!」
「そりゃ俺だってこの後は勉強だよ。そんなのお互い様。成績とかそういうの関係ない」
 彼はまだ正面を見つめている。しかし、引かれる腕は不思議にも重い。師走の忙しい時に受験生が受験生を連れ出すような真似は支離滅裂にも程がある。特に、細かく降り続く雪に似た心理状態の人間にとって。それでも、彼女は晶の手を振りほどこうとは思わなかった。何となく、彼の行動には支離滅裂であるなりの理由があると感じたからだ。
そう思うのも、握られる手が不思議なくらい温かかったからだった。

公園の外灯は二つの青い影を雪の上に落としていた。
あまり雪かきがなされていないのか、ところどころに深みがあった。街路樹の奥からは家々の優しげな灯りが見える。家によっては色とりどりのイルミネーションを輝かせてもいる。
「わー、綺麗……」
「まぁ電力の無駄遣いなんだけどね」
「あんただって無駄遣いしてるじゃない、時間を…………ぶっ!」
 突然、顔面に雪球が投げつけられた。
 手で顔を拭うと、その場にしゃがみ込んで夢中で雪球を作る晶の姿があった。馬鹿丁寧に雪を丸めるその様子は必死で光る泥団子を作る幼稚園児に似ている。絵里子の中で可愛らしさと苛立ちが奇妙なマーブル模様が生み出されていく。
「隙ありっ!!」
「ぴぎゃっ!!!ちょっと、人の使うの反則っ!!」
 絵里子はいつの間にか晶の作り貯めた雪球を両手に持っていた。
「あんたが作るのに夢中になってるからでしょ、それっ!」
「あ、この〜、よくもっ!!」
 二人は我を忘れたように雪球をぶつけ合った。
 絵里子の大切なカルトンも鞄も雪まみれ。手作りの赤い手袋も買ってもらったばかりのコートもブーツもびしょ濡れだ。晶は何度も雪の上に転んで臙脂色のコーデュロイのパンツを濡らしている。ごつごつしたスニーカーの中にも水が滲みているであろう。それでも気にせず、笑い合っている。自分達を縛る何かを忘れて、じゃれ合っている。
 走りすぎて、笑いすぎて息が上がってきた頃には、服が汚れることさえ気にせずに踏み固まった雪の上に座っていた。
「あー、すごいおもしろかった……」
「うん、明日筋肉痛かもなぁ……」
「あんた、たかが雪合戦なのに飛び跳ね過ぎなんだよ、全身ずぶ濡れだし……」
「はは……。
……でも良かった、絵里がこんなに笑ってくれて」
 晶はそっと呟くように言った。
「俺ね、思うんだよ。俺なんかよりずっと、絵里の絵の方が良いって」
「え……?いきなり何よ……」
「今、すげーいい顔してた。多分今まで見たことないくらい。俺と絵描いてる時より、クラスにいるときよりずっといい顔してた。……なぁ、絵里。好きなんだろ、絵描くの」
「…………うん」
 今までよりも硬質な彼の言葉に絵里子は驚いたが、内心を悟られないように彼を見据え返し、首を縦に振った。
「……じゃあ、笑いなよ。今みたいに。俺は絵の時あんな顔できないけど、絵里だったら出来る。そういうのは賞とか関係ないと思う。上手く言えないけど、笑うが勝ち、みたいな……」
「………………」
 彼の口から言葉が紡ぎ出される度に、胸の奥が突き上げられていく。喜ぶべきか敗北感を味わうべきか、どう受け止めれば良いのか。何もわからないまま、晶から目を伏せてしまった。
「とにかく、俺んち少し遠いからもう帰る。
……一緒に高校行こう、志望校同じなんでしょ?約束だよ、じゃあねっ!!」
 手を振りつつ、後ずさりをするように身体は絵里子の方を向いたまま晶は公園を後にした。
 だが、絵里子は何も出来なかった。彼についていくことはおろか、立ち上がって手を振ることも、ただ一言なにかを言うことも。ジーパンが濡れることさえ気にも出来ず、呆然と座っていることしか出来なかった。
 雪の花びらは大きく、速度を増しながら街を、彼女の心を覆い尽くしてゆく。
 まるで、キャンバスを塗り替えるかのように。




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