「月がなくなった時の話」 ~矢 弦彦

 空に向かって、今日の月を問いかけると、雲がすすっと移動して「満月《フル・ムーン》」と英語になった。なるほど! しかし、どこを見回しても満月なんて見あたらない。あるのは、くず星ばかりである。
「こりゃあいけない。月の野郎、いまだおねんねでいやがるな」
 さっそく、山の向こうのそのまた向こう、野を越え川越え、何だかきらきらする処を抜け、平べったいガラスの中のような世界を歩いて、一件の奇妙な風貌のアパアトへ。このアパアト、どれほど奇妙かと申しますと、あちこちから部屋が飛び出して、しかもその部屋と来たら、四角だけじゃなく、三角やら、楕円やら、円錐やら、うねうね曲がっているのやら、もう何と形容していいのかわからないのやら、とにかくそんなのばかりで、それが六角柱を中心にしているものだから、見た感じ、出来損ないの石英みたいな建物なのです。
 早速、その中に入り、月の部屋である「北の雪紫陽花(全ての部屋にはこのように名前がついているのです。だれがつけたのかしら)」の前に来ると、扉を勢いよく叩いた。しかし、何の返事も帰ってこない。おかしいなと、思い取っ手に手を掛けると、鍵が開いている。中に入ってみますと、そこには、確かに今まで誰かいた気配があるのですが、月の姿はありませんでした。月が外に出る前に必ず飲むあの薬草茶は、ポットに沸いていて、口から湯気を出していたし、腹ごしらえに軽くつまんだ大麦のパンもテイブルにほったらかしになっていた。それなのに、それを用意していた月の姿だけがぽっかり抜け落ちてしまっている。
 おかしいと思い、寝室や物置、バスルームなどに目を通しても、月はどこにもいない。
「これはただごとじゃない」
 わたしは、思わず独りごちると、急いで、太陽の部屋に行きました(太陽の部屋の名前は残念だがお明かしすることが出来ない。部屋の名前を云われるのを太陽がどうしても嫌うものですから)。この時間だと太陽は寝ているのだが、そんなことはいってられない。大声で怒鳴り散らして太陽を呼ぶと、だまれだまれと不機嫌そうな顔をして出てきた。
「いったい何だ、騒々しい」
「月がどこにもいないのです、太陽さん」
「月って、どこのだい」
「カルタ大通りですが」
 太陽は大口開けて笑うと、わたしを見据えて、そんな馬鹿なと云った。
「あそこの月はまじめで、休んだことは一度も無いぞ。タルホの処の月とは違うんだ」
「でも、部屋が空っぽで・・・・・・」
「おおかた、もう出かけたのだろう」
 わたしは、そんなはずは無いと云おうとしたのですが、太陽はそれを制し、長いあくびを一つして、わしはもう眠るのだ。じゃまをしないでくれ、と扉を閉めてしまった。
 確かに出かけたのかも知れない。しかし、彼はカルタ大通りへは向かっていない。理由など無いが、そのことだけは、なぜかはっきりと感じられるのです。
 わたしは仕方なく、とぼとぼ階段を下りて、月の部屋へと一度戻ることにしました。やはりそこに彼がいるわけではなく、ポットに入ったお茶もすっかり冷めてしまっている。何か手掛かりはないものか。しかし、考えてみれば、わたしがここに来たのは初めてだった(知らないのなら、どうしてお前は月の部屋まで行くことが出来たのだ、と云う人があるかも知れません。そのことに関して云えば、わたしは何故か月の部屋を知っていたからだと云うことしか出来ません)。
 とりあえずわたしは彼の行く先がわかるものがないか、部屋の中を探し始めた。
 部屋の中はしっかり片付けられた印象があった。特に食器類にかけては、その材質、形、用途を考慮され、積み方並べ方において、ある種の整然とした美しさを見せるように置かれていたのです。しかし、そんな処を探しても何かが見つかるわけでないのは明かである。とりあえず、わたしは本棚をのぞいてみることにした。特に目立った本があるわけでない。「星との社交術」「美しい月の歩行術」「夜を楽しく過ごすために」などの軽い本から、「銀河生誕論」「宇宙線描法」「ミヒャエル・モントシャインの彗星精製過程における非有限物質からの星雲抽出」などの学術論文まで色々あるが、どれも月の居場所をしめしてくれそうにない。
 机の上も見てみた。すると、紙の二三枚おいてあるのを見つけた。殴り書きしたような文字は判別に苦しむが、読めないわけではない。灯りをつけ、夜空から採ったのであろう、ミッドナイト・ブルーのインキが流されるのを読むと次のようなことが書かれていた。
――これを読むであろう、誰かさんに一言申し上げておきたい。わたくし月めはもう夜空を歩くことがいやになってしまいました。理由をお聞きしないでください。わたくしのこのいやだと云う気持ちをただただ察してもらいたいのです。もちろん、この気持ちがずっと変わらないなんて事がありえるはずもないこともご一緒にお考えください。ただ、わたくしめは旅にでとうございます。旅なんて言い方はしゃれてますね。ただぶらぶらしたいのですよ。まあ、帰ってきますのでご心配なさらずに! これか――
 ここで切れている。十分に乾ききっていないところを見ると、わたしが扉を叩いたことにあわてて窓から抜け出したのでしょう。
 さて、困ったことになった。せめて「これか」を最後まで書き終えたところでノックすべきであった。きっと、これは「これから何処其処へいこうと思います。」とでも書くつもりであったのだろう。その可能性は高い。
 しかし、無いものをあれこれ考えたとして、それがなんになる訳でもないのだから、ここで今なすべき事は何か、考える必要がある。
 そうすると、結局は何もしようが無いのでした。わたしは、結局もと来た道を戻り、帰るしかなかったのです。
 帰ってきても、空に月がある訳ではないのですが、ぼうっと空を見てみました。星も月のいないのを良いことに好き勝手しております。わたしは空に向かい大声で、お前たちやめないか、と叫びました。星はただ、けたけた笑って、いやだよいやだ、誰があんたの云うことなんか、と余計暴れ回ります。こうなってはわたしには手のつけようがありません。帽子を目深にかぶってすごすごと逃げ出すしかありませんでした。
 さて、それから一週間以上がたとうとしています。月はまだ帰ってこない。月のいなくて清々したといった様子を見せていた星々の多くも流石飽きたか、おとなしくしている。
 もう、月は戻ってこないのでしょうか。いいえ、きっと戻ってくるはずなのです。しかし、はて、一つ腑に落ちないことがある。なぜ、わたしたちの月が夜空を歩くのがいやになったかと云うことだ。
 これについては、わたしは色々、考えをめぐらせました。つい、三日ほど前には、いつもめんどくさそうにしている、あのタルホの月にも話を聞こうとしました。タルホの月が、わたしたちの月の失踪を聞いたときのあの愉快そうな顔は例えようがありません。ただ、一言、「そら愉快!」とだけこぼしたことが、ひどく記憶に残った。タルホの月は、面倒であると思っていても、夜空を歩くことを一度も欠かしたことが無いことに気付いたのは、彼の部屋を出た後だった。
 理由はわたしの考えに及ばないところにあるようです。
 仕方がないので、わたしはこれからカフェにでもいって、つまらぬ酒でも飲むことにします。それでは、またいつか、月が戻ってきたときにでも、お話しさせていただきましょう。オ・ルヴォワル!

  〇七年五月三一日




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