「魔法少年☆青春シャドウ」楓 里庵


「それじゃあ、歯医者行ってくるから留守番よろしくねー」
「……んあ」
 少し遠く聞こえる母の声で、澤(さわ)は目を覚ました。
「んもぅ、もう高校生なんだからさっさと布団から出なさいよ、母さんもう行くからね」
「……う゛ぅ……いってらっさい…………」
 少年は上体をゆっくり起こした。目がまだしょぼしょぼとして、見える景色がまるで後期印象派の絵画のようだ。母親がドアから遠ざかったのを確認すると、彼は再び布団の中に潜り込んだ。
 かぽかぽと靴を鳴らす音とドアを開閉する音が玄関に響いたら、そこに残るのは静寂である。彼はそれが訪れるのを待ちわびていた。春休み中ということもあり、普段は家族の監視下に置かれなかなかさせてもらえない『春眠は暁を覚えないから夕方まで寝』を実行する絶好のチャンスなのだ。
「高校入ったらどうせ部活とかでこんなに寝られないしなぁ……
今日は母ちゃん歯医者だし、姉ちゃんは出掛けてるみたいだし、こんなことできるのも……………ん?」
 寝返りを打とうとした瞬間、身体に何か硬いものが当たった気がした。
 彼のベッドは壁際に設置されているが、壁の感触とは違う。多少の柔らかみと妙な温もりがあるのだ。そして、心なしかベッドがいつもより窮屈に感じられる。
「……え?」
 三月の春の心地よい気温が誘った眠気は一気に覚めた。
「何かいんの……?」
 閉じていた目を恐る恐る開けてみると、目と鼻の先に何者かが堂々と布団の中に入りすやすやと寝息を立てているではないか。ちらりとのぞく灰紫色の髪は根元まで金属的な輝きをみせているのでおそらく地毛であろう。こちらに背を向けてはいるが、幅が広くごつごつとした肩の感じから判断して男であると思われる。
「……………………!」
 自分の布団に見知らぬ男がいる。
強盗か何だか知る由も無いが、あまりにも都市伝説的過ぎる出来事に、少年は声も出なかった。だがこのまま息を潜めているわけにもいかないので、どうにかしてベッドから脱しようと、考えうる範囲でなるたけ音を、振動を立てずに身体を動かすと……。
「はう〜、ハニー、もう食べられないよぉ……」
 間抜けな寝言の典型例。
「……何だよハニーって」
 彼の中で走っていた緊張が一瞬、ほんの一瞬だけ解かれた。
 強盗の類ではなさそうだが他人のベッドで眠りこける行為は明らかに不審者である。少年ができることはこの男の安らかな寝顔を金属バット片手に見守ることだけたった。 
「あーあヨダレまで垂らしやがって……。タオルケット代弁償してもら……」
「むにゃにゃ……ハニー?」
 男が夢から覚めたようだ。しかも目まで合ってしまった。美しいアメジストの双眸の中に凶器を持った自分が写る。
「ぎゃあああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!!」
「はわわ、まだ死にたくない、まだ死にたくないよぉ!!!ぎゃあっ!!」
「いい加減にしやがれ!!!」
 多感な時期でもあるせいか、訳のわからぬままに少年の怒りのスイッチが入る。
めしり、と男の真横の壁にバットの先がめり込んだ。
「一体何なんだ、おっさんは……何しに俺の部屋に侵入したんだ?!言っとくが俺に金は無いし、それにそーゆー趣味も無い!!」
「穿って考えすぎだよ、ボーイ……
 私は怪しい者でも何でもない!!私はただの陰影局員のウバ=ベイヌール。現在四児の父さ」
「無茶苦茶怪しいわっ!!何だ陰影局員って!!ふざけるのもいい加減にしろ!!!通報すんぞ!!!!」
 凶器の先が男の顔面すれすれに向けられた。このような状況にもかかわらず、ウバと名乗る男は先程の恐怖に満ちた顔つきから一転して柔らかな笑みを浮かべ、澤を見つめる。
「……通報ね。多分無駄だと思うよ?だって私、人間じゃないから」
「はぁ。人間じゃないなら何だよ?変な名乗りして、真っ黒なフード被ってたりなんかしたら不審者としか言いようが無いでしょ」
 バットを握る腕が下りた。興奮している自分を、別の場所から冷静な自分が眺めているような気がした。かえって座り込んでいる男の方が自分より平静を保っているように思えてくる。
「確かにボーイの言う通りかもしれない。だめだよね、こんなことしちゃ。
 だけど、これだけは言える。私は影の精霊で、ボーイ、桜田澤と契約を結ぶためにここに来たのだと」
「……はぁ。んで、その証拠は何?つーか……何で俺の名前知ってんの?」
 凶器を握る手が震え、汗が溜まっていく。顔は男の方を向いているが、どうしても目を合わせられない。動揺しきった頭の中の歯車を止めることが出来ない。
「名前のことは極秘情報ということで。あと、私が人外である証明は私を見える人間さえいなきゃ、昼下がりの繁華街をパンツ被って『ざるうどん』ってプラカード持って一人全裸行進できるってことかな。今からちょっとやってみるけど?」
「あぁ、やれよ。やっちまえよ」
 思わず口走ってしまった。頭の中が浮揚している状態故の失態とでもいうべきか。
「…………(やべぇ)」
「……言ったね。じゃあ私やるから」
 ウバはそう言うと黒のフードを脱ぎ、生成りのシャツを脱ぎ、紫のコーデュロイパンツを脱ぎ、更にはベリー柄の下着を……
 本来止めるべきなんだろうが、止めたところでどうなるかわかったものではない。そもそも契約とは何なのか、なぜ自分の名を人外を名乗るものに知られ、そして選ばれたのか。どうせ閉じ込められるならSF世界か夢の世界の方が良かった、と澤は思った。
しかし、今の彼には漢として暴走する精霊の姿を見届ける義務がある。漢としてのプライドが彼を駆り立てるのだ。
「あーあ、もうちょっと寝てたかったんだけどな……」
 澤もウバの活躍を見守るべく、パジャマからジャージとデニムに着替えることにした。
 それが、これからの生活を掻き混ぜてしまうとは知る由も無く、精霊の後を付いて町へと歩き出すのであった……

 春休みの昼下がり、空模様は冬の匂いを残す薄曇りだが、繁華街は幸福な人々で一杯だった。
 クレープを頬張る自分と同じくらいの歳の少年少女の群れ、堅く手をつなぐ学生カップル達、買い物中の子供連れ。通り過ぎていくそれぞれの表情は喜びに満ちている。通り抜ける少年は、視線を横にやりながら軽く眉をひそめている。
「ねぇボーイ、見てよあの男の子、子犬を追いかけてるよ。かわいいよねぇ。私にも丁度あれくらいのベイビーがいてね……」
「…………」
 談笑する大男と痩せた男が、澤の横、ウバの裸身の中を過ぎ去っていく。
「…………」
「……どうしたんだい、ボーイ。お腹でも壊したの?」
「……あんたが何しても誰も気づかないのはわかった。
 ただな、その格好で子供がどうとか言うのはまずくないか?」
「いいじゃない。誰も気づいてないんだから」
 一体どこから入手したものなのか、レモン色のTバックを被り、『ざるうどん』と書かれたプラカードを掲げた全裸に白靴下の精霊は優しげに微笑み、顔をこちらに向けた状態で突き進んでいく。背面を半強制的に見せられているだけでも精神的なダメージは大きい。世の中見えないほうが幸せなことがあることに厭でも気づかされる瞬間である。
「……いろいろ参ってるんすか?」
「いや、別に。……あんまり長く喋ってるとボーイが不審者になってしまうよ?」
「……そのボーイっていうの止してくれないかなぁ…………」
 澤は両手で頭を抱えた。同じ人型をしているのだから、精霊にだって羞恥心はあると思っていたのだけれど。これも文化の違いなのかと納得してしまいそうな心を置いていくために、少年は敢えて周りを見渡すことにした。無論、人間と判る存在でこんなことをしている輩はここにはいない。
すると、一人の少女が視界に入った。
その少女の髪は肩の少し上くらいで揃えられ、シンプルな青のワンピースの左胸の部分には深紅の薔薇のブローチを付けている。円らな瞳と滑らかな額が何とも清楚で、採点するとしたら85点は下らないはず……なのだが。
しかし、どうも彼女の様子がおかしい。口に両手を当て、耳を真っ赤にしてこちらを凝視している。ワンピースから伸びる華奢な足元で真っ白なソフトクリームがバラバラになっている。
触ったら確実に火傷しそうな彼女の耳を見てようやく我に返った。どうやら彼女にも「見えている」ようである。
澤はそのままの体制でウバに話しかけた。
「おい、おっさん……」
「どうした、ボーイ」
「おっさんの姿、見られてるっぽい……」
 ウバは少し表情を固めてから、ちらりと澤の方を向いて、
「あのねボーイ、言わせてもらうとさ、君私のことおっさんおっさん連呼してるけどそこまで年寄りじゃないからね。ほら見てよボーイ、私のコレすごく……」
「……………………話聞いてくれよぉっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
 雑踏の中、恥を忘れて少年が叫びだしたその時、

『あっ!!あれは何だ?!』

 突然路上にざわめきが波立ち、人々がある一定の方向に注目し出した。周りはパニック状態ではないようだが、自分自身が慌ててしまっていまいち何が起こっているのか把握できない。
「いいいいいい、今だおっさん!!!!!!!逃げるなら、あの子の口を封じるなら今しかねえぞ!!」
「…………」
 澤はどうにか気づいてもらおうとウバの背中の肉をつまんだ。しかし、何故か精霊は動こうとしない。
「おっさん!ねぇってば!!」
 するとウバは静かに彼に尋ね返した。
「……ねぇ、ボーイ。その子、髪短かくて薔薇のブローチしてなかった?」
 少年は首を縦に振った。精霊はその動きを確認するとこう続けた。
「なら大丈夫、その子はボーイと『同類』だから。……いや、ボーイが彼女と『同類』になるって言った方が良いかな」
「どういう意味だよ、それ……」
「それは後から説明する。その前に、私と契約をしてもらおうか」
 唐突な精霊の言葉に、澤は思わず彼の両腕に掴みかかった。
「え?ちょ、ちょっと待てよおっさん。その契約ってのは何なんだよ、一体!さっきも言ってたけど!!」
「それじゃあ、前方で何が起こっているか、見てごらん」
 騒ぎを聞きつけてどこからか集まってきたのだろう、いつの間にか増殖した黒山の人だかりから首をぎりぎり伸ばして正面を見ると、何故か路幅一杯に生きたネコザメが山盛りになっていた。

「……何これ」
「それは知らない。
……でも、このままだとあの生き物の命が危険だし、通行人にも迷惑がかかってしまう。だからここで契約するしかないんだよボーイ!!大体、私がここに来た目的はこんな常識じゃ考えられない恥ずかしい真似をするためじゃないんだし!さぁ、私と契約し、影の魔法を得ることで世界を救うんだ!」
「そもそも、何で俺がなんですか。こういうことは女子に頼むことなんじゃないの?」
「ボーイ、魔法少女養成機関を知ってるだろう?ボーイはそこで選ばれたんだよ」
 説明しよう!澤の暮らしている世界には魔法少女が世の中を良くする為に慈善活動を行う特殊機関がどういうわけか公的なものとして存在しているのだ。その機関による極秘審査(籤引き)を通過した者だけが魔法少女になれるのだ。魔法少女がいれば、緊急事態が重なった時でも警察や消防署といった機関への負担が軽くなる……という発想の下でこんな制度が存在するらしいのである。
「だから、何で男の俺が選ばれたんだ?」
「籤引きで決めてるからさ☆」
 そんな理由で良いのか。影の精霊は半ば強引に話しを進めていく。
「まぁとにかく、ボーイは今日から魔法少女……もとい魔法少年ね!
じゃあ今から出す契約書にサインして!」
「へっ?」
 いつの間にか、右手にはインクのぎっしり詰まったゼブラボールペン(黒)が握られていた。しかも、訳のわからぬ文字が並べられた件の契約書はウバの下腹部に貼り付けられている。
正直な気持ち、ここにサインをする気にはいろいろな意味でなれない。だが、ここまで来てしまったからには、漢として引き下がることはできない。
澤は決意を固めた。
「ふっ、随分強制的なもんだぜ……。わーったよ、なりゃいいんだろ。魔法少年に」
「流石はボーイ、私のご主人様だ。さぁ、ここに名前を書いて。皆が通ってきた道程だよ」
 そんな体勢で契約書を書くスタイルは無いと思うのだが。
「……おっさん、その台詞はどうなのよ?プライドはどうしたんだ?
それでも四児の父親なのか?」
「だって、契約したって事実がある以上ボーイは私のご主人様だし、この人だかりじゃ書くとこ他に無いじゃない!もちろん私にだってプライドくらいあるよ、こんな所ハニーやベイビーに見られたら生きていけないよぉ……」
 こうしているウバだって、紙越しに伝わるこそばゆさを、自我の崩壊を必死に耐えている。彼の生理・精神状態を理解出来なくも無いが、主観的な視点から考えてあまり快い状態ではない。いろいろな意味で。
「……お気持ちはわかりました。ただ、あんまり紙を出っ張らせないでください。名前書き辛いんで」
ストライクゾーンの上に、主人である『桜田澤』の署名がなされた。
「……契約完了だよ、ボーイ。『魔法少年☆青春シャドウ』としてあの生き物を救うんだ!」
「勝手に命名されちゃったよ!しかもダサい名前!」
 その刹那、全裸の精霊の身体は影色に染まり実体を人型から紐状に変え、直径一センチの黒い珠が三メートルほど繋がった『影の鎖』となって澤の身体にしゅるりと巻きついた。
「……別に俺が変身するわけじゃないんだな」
『契約したって言ったって力を与えられただけだから。
もししたけりゃポイントためると良いよ』
「電気屋じゃねぇんだから」
『それじゃ今からの説明をよーく叩き込んで、私の力を存分に使ってくれたまえ!』
 ここで再び説明しよう!影の魔法を手に入れると、影の鎖を身に付けている間、影を水飴やら水芸のように自由に操ることができるのだ!もちろん影のある部分を地面の代わりにして歩くことだってできるぞ!これなら水上も壁の上も安心して散歩をすることが可能になるのだ!ただし、影は光に弱いのでそこのところを留意しなければならないのである。
「なるほど、これなら人混みを避けてネコザメのところに近寄れるって訳か……面白れーじゃん!」
 試すついでに壁にかかっている影の上を歩いてみる。側面を歩いているというのに重力に逆らわない。思わず飛んで跳ねて座って、挙句の果てには逆立ちまで試してしまう。もちろん地上にいるときの感覚とまったく変わらない。
「魔法の力ってすげー!!」
 黒い部分は安全だが白い部分を踏んではいけないという横断歩道ルールの逆パターンが、人間の澤にとってあまりにも新鮮だった。
「ちょっとボーイ、遊んじゃ駄目だよ!あれ魚ってやつでしょ?もたもたしてると干からびるよ」
「……はいはーい」
魔法少年は喋る鎖を連れ、地面と水平になった体勢で軽快に壁面を駆けて行った。
 
どうにかネコザメの近くにまで辿り着くことはできたが、山盛りの彼らをどうやって彼らを救えばいいのかが問題だった。おとなしい魚とはいえ、野晒しにされたその姿はいかにも苦しそうだ。
「どーすんだよこれ、このままじゃ干からびるぜ?」
『ボーイ、こうすれば良いんだ。建物の影とか長い影を利用して生き物をクレープ状に包んじゃうのさ』
「そりゃ包めば助かるかもわかんないけど……影を人が踏んでるんだぜ?周りの人間巻き込んじゃうぞ」
『む〜……』
 ネコザメの山と睨めっこをしていると、背後に視線とは違うものを感じた。すぐさま振り返ると、眼鏡をかけ、スーツを着込んだ貧弱そうな男性が招き猫のポーズのままで固まっていた。
「な、何ですか?」
「あ、あの〜なの……」
 齢にして三十路を過ぎているだろう男性が語尾に『なの』を付けるのはどうかと思ったが、澤ももう高校生だ。その部分は突っ込まないことにした。
 そんな彼の配慮も露知らず、男性はほのぼのとした口調で続けた。
「見てしまったの……そのネコザメの群れにメイドさんが潰されるのを……
君、魔法使えるなら助けてあげてほしいの。かわいそうなの」
「はぁ?何言ってるんですか、あんた……」
『何だって?!氷雨ろんが!?』
男性の言葉に、ウバが強く反応した。名指しでその人物を示したということは知り合いか何かであろう。自分の他にも契約している人間がいるということなのだろうか。澤の中で疑問が次々と沸いてくる。
「おっさん、その人を知ってるのか?!」
『まあね……だけど説明してる場合じゃないんだ!!待っててね氷雨ろん、今助けに行くから!!!』
「おいちょっと、おっさん!?」
「く、鎖が飛んだの!」
 澤の身体に巻きついていた鎖はゆっくりと螺旋を描きながら上空に向かって解かれ、ネコザメ山の頂上めがけてダイブしてゆく。
「……本当にあの中に人がいるのかぁ?」
「いるの。だって見たの。
……その目は何なの、嘘はついてないの!」
今のところネコザメの山に動きは無い。ウバの姿も見当たらない。
傍にいる眼鏡の男性をはじめとして、人々も不安そうな様子で契約者とサメ達を見つめている。魔法少年デビューとしてはあまりかっこいいものになりそうも無い雰囲気が彼の胸を突き刺していた。
「おっさん、大丈夫かよ……」
「……大丈夫なの」
 思わず口から漏れた言葉を、男性が掬い取った。
「君と契約したのは影の精霊で合ってるの?」
 澤は小さく頷いた。眼鏡の奥にある瞳が、心なしかぎらついて見える。
「サメの身体の重なっている部分に小さな隙間が出来るでしょなの。そうすると適度に影が出来るの。出来た影とくっつけば網のようになってサメもメイドさんも助けられるの」
 メイドを助けられる根拠となるのかどうか今ひとつ理解できなかったが、普通の人間にしては精霊の能力に詳しすぎる。澤は男性に尋ねた。
「あんた、もしかして……」
「?」
「もしかして、あん」
『ボーイ!!!!!!!!!』
 質問は精霊によって遮られた。はっとして正面を見ると、そこにネコザメの姿は無かった。
「!?ど、どこに言ったんだ???」
「そっちじゃないの。上にいるの」
「え゛っ!!??」
 見上げると、網のようなもので覆われたネコザメとメイドが頭上を漂っているではないか。
「ちょっと待て、何だこれぇーーーーーーっ!!??」
『浮いてみたのはいいんだけど、これ意外と重いんだよ〜っ!何とかしてよボーイ!!』
「んなこと言われたって、こっちがどーすりゃいいかわかんないから!!!とりあえず耐えとけ!!」
 男性は二人に聞こえるかどうかのか細い声で呟いた。
「……もう耐えられないと思うの」
「……え?」
 澤の短い黒髪が温かみを帯び、繁華街が明るくなった。
 それまで太陽を覆っていた雲が青の中に解け、それまで弱々しかった日差しが強くなったのだ。
「おっさん!!!」
「っ……もうだめえっ!!!!!!!!!」
 悲劇の美少女顔負けの慟哭が澤の耳に響いた。
 その刹那、今度は澤がネコザメに埋もれる番であるとでも言うかの如く、ネコザメの雨が降った。 

 晴れ所によって一時ネコザメ。
その間他に何が起こっていたか、よく憶えていなかった。街の様子も、あの少女と眼鏡の男性の行方も。後期印象派を超えて、抽象画の領域に入ってしまったか。断片的ではあるが、人々の半ば叫んでいるような会話がいくつか聞き取れた。
「お、おい!あれを見ろ!!!サメが、サメが降って来るぞ!!!!」
「少年、大丈夫か!?」
「誰か、トゥインクルたんを……」
 鮫肌を叩きつけられ、薄らいでいく意識の中、どよめきばかりが聞こえてくる。
 こんな天気のいい日に何でサメが降ってくるんだ。
 影の力が使えるのに、何でこんな目に遭うんだ。
 ……大体、「トゥインクルたん」って誰のことなんだ。もしかしてさっきの……。

「……ボーイ?」
 まるで自分の子供にでもするような呼びかけで、澤は目を覚ました。
「おっさん……」
「魚に潰されて死んじゃったかと思ったよ。良かった、生きてて」
 ウバは澤を抱きしめたが、少々力が強いのか、肋骨がぴきぴきと軋んだ。
「いててててててっ!!!おっさん、苦しい!苦しいから!」
「マイハニーはこれよりきつーく私を抱くんだよ。ボーイもそれくらいで音を上げてたら男が上がらないぞ☆」
 こいつにだけは言われたくないと、澤の静脈もぴきぴきと浮き立った。
「それは良いとして……何で俺いつの間に部屋に戻ってるんだ?」
 窓の光はベッドを、バットを、部屋全体を茜色に染め上げていた。
出来れば昼の出来事は夢であって欲しかったのだが、ここにウバがいるという事実が澤の希望を打ち消している。
「ふふふー。実はね、氷雨ろんがここまでボーイを連れてきたんだよー」
「……全く、人がせっかくどんな奴か試してやったのに、結局あたしの腕力自慢になっちゃったじゃない!」
 希望は何度でも甦る。
 夢であって欲しかった。
「な、何で他人の部屋っつーか家に勝手に……」
「何よ、あんたのこと助けて何かデメリットがあるとでも思うの?」
「大体助けられる立場の奴が助けようとした奴に逆らうか?」
「今言ったでしょ。私はあなたの力量を試すために使い魔(サメ)に埋もれてたの」
「………………」
 彼女の口調はある特定の層に支持されるキャラクターのそれと似ていた。
 しかし、澤の前に立ちはだかるメイドの外見は度の強い眼鏡に太い三つ編みで、頬はそばかすが目立っている。服装もスカート丈が中途半端で、とてもそうしたキャラクター達とは似ても似つかない。人には向き不向きがあることへの無常観と言い知れぬ行き場の無い怒りが彼の中で渦巻いた。険悪なムードに、流石のウバも慌てふためく。
「ふ、二人とも、喧嘩は良くないよぉ。
ボーイ、君はこれからこの人からアドバイスを受けるようになるんだからちゃんと言う事聞くんだよ。氷雨ろんも人と精霊の仲介役なんだから、そういう態度は慎んで……ね?」
「そう。彼の言うように、このあたし、青島氷雨があなたを一流の魔法少年にしていくの。今日のあなたは正直言って最低だったわ!あたしの可愛い使い魔をぞんざいに扱うなんて!」
「…………」
澤はただ黙って俯いてメイドの小言を聞いていた。
身体と心で態度が反比例していることに気づいてはいないだろう、と見えない笑みを浮かべながら。
絶望的なまでの現実を突きつけられるほど、希望は肥大する。
当然認めてなんてくれないだろうなと、澤は確信した。

――さぁ、最低とかじゃなくて、失格って言ってくれよ。

「あんたは乙女の扱いも知らない最低野郎だけど……好みのタイプだからあたしのために一流の魔法少年になって!!」
「え゛えええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!」
「良かったじゃんボーイ!これからよろしくね!!」
「何もよろしくねえっ!!!!!!!」
 
 高校入学を控えた春、桜田澤の運命は明々後日の方向を目指し幕を開けたのであった。
                                    《続く》




BACK