『色付く理由』秋山涼
1章「私と誠司くんとおばあちゃんと先生と」
病院というのは多分外側が真白な建物だと思う。それはどこでも共通だろう。それが嫌なわけじゃない。むしろ、清潔感があって私は好きだ。内部に漂う何が元なのかわからない臭いは最初嫌なものだったけど、すぐに慣れるもので、もう半年以上生活している私にとっては日常の一部とさえ言える。
パジャマで院内を歩き回るのは最初抵抗があったけど、一度やると平気になってしまう。今日も私はパジャマで院内を移動している。お兄ちゃんが買って来てくれた黄色いぶかぶかのもの。指先がようやく出るくらいの大きめな丈で、私の身長とスリーサイズを知っているはずのお兄ちゃんが買って来たにしては妙だった。もしかすると、これはお兄ちゃんの好みだろうか。
病室から持ってきた本を片手に、私はパジャマのままで図書室に向かっていた。時折すれ違う看護師の方々にも挨拶は忘れない。
私が向かっているところは、正式には図書ルームという。この病院には妙に病院とは思えない施設があって、図書ルームはその一つだ。私が知る限りでは、パソコンを使える部屋や和室、果ては勉強スペースまである。
短期ならともかく、私のように長期の入院生活をする者は、殆ど刺激の無い生活を送る事になる。病院の外に出ると言っても庭までが限度で、敷地の外に行く事はまず無い。そのため、病院が提供した憩いの場の一つが図書ルームなのである。
何人もの入院していた人が、お世話になったから、ということで本を置いていったらしい。慈善団体からの寄付や、廃校になる小学校から買い取るなどして、蔵書が増えたため、大きなスペースを確保するために、食堂に使っていた部屋を改装し、図書ルームにしたらしい。
蔵書量は学校の図書室に匹敵するくらいで、その殆どが寄付によるものだとは信じられないほどだ。だからいっそ図書室と改名しても良いと思うのだけど、一向にその気配は無かった。私は学校と同じノリで図書室と呼んでいるし、他にも多くの人がそう呼んでいるのは病院側も知っているはずだ。
図書室に入ると、中はパジャマの人が大半を占める。年齢層だけはバラつきがあるけど、みんな仲良く楽しそうに話をしている。さすがに飲み食いまでしているのは子供くらいだけど。
まるで図書室とは思えない、話し声や笑い声に満ちた空間。私はこの雰囲気が好きだ。老若男女が共に過ごす憩いの空間なのだから、静かにしなさいとかのうるさいルールはあえて作られてないのだ。そのおかげか、年齢が二回りくらい違う人達も和やかな表情で談笑していた。その姿はまるで病人ということを感じさせない。
中は本棚だけでなく、閲覧用の机もある。元は食堂だったらしく、病院の中では一番大きい部屋だ。壁には本棚が並んでいて、その殆どは小説だ。文庫からハードカバーまでかなりの品揃えで、利用する側としては飽きることは無い。電気がどうのとか物理何とかという難しそうな本もあったけど、さすがに需要はないようだ。
私は借りていた本を元に戻すと、次の本を物色し始めた。ここの図書室では借りるのにも規則が無い。カウンターみたいなところで手続きする必要もないし、借りられる冊数も上限が無い。強いて言うなら、病室に持って帰れるくらいだ。もちろん無料で借りられるので、非常にありがたい場所と言えた。
読書はもともと私の趣味ではなかったけど、薦められて読んでみたものがとても面白く、退屈な毎日への良い刺激となっている。読み始めてみると、何で今まで読書をしなかったのかとすら思えるから不思議だ。
私が読むのは専ら小説だ。好きな作家の作品は、とりあえず蔵書にあるものは全部読みきったから、今は作家にはこだわらず、無作為に選んで読むことにしている。
少し屈んで棚を見る。今日はこの辺から選んでみよう。
と、私が本に手を伸ばした時だった。
「お姉ちゃん見つけた!」
「きゃっ!」
私は思わず悲鳴を上げて振り向いた。お尻を触られた感触があったのだ。そして、そんなことをする人間は、私の知る限り一人しかいない。
「もう、誠司くん、いつもそーゆーことはやっちゃ駄目って言ってるでしょ?」
振り向いた先にいたのは小学校に入って間も無いくらいの男の子だった。とはいえ、まだ五歳と言っていた。
こんな小さな子が相手ではそうそう怒るわけにはいかない。私はいつもこのように弱い口調で怒ることしか出来ないけど、彼はそれを知っててやる。つまり、確信犯なのだ。
それは確かに憎たらしいとは思う。けど、誠司くんがこのような振る舞いをするのは、決まって私が何かに夢中になっている時だということに、私はある時気付いた。正確に言えば気付かされたんだけど。誠司くんは私の気を引こうとしているんだと思う。それに気付くと可愛いとさえ思えた。
「はーい、もうしませーん」
「もう、返事だけは良いんだから」
元気に見えるとはいっても、彼も病人なのだ。迂闊に手は出せない。それに、根は悪い子じゃないからつい許してしまう。セクハラはするものの、とても聡明な子で、私に本を薦めたのも、この誠司くんだった。
「ホントにもうしないのかなー?」
私は額を誠司くんの額に付けながらそう聞いた。そうすると誠司くんはたちまち顔を赤らめ、黙り込んでしまう。私が彼に出来る報復など、精々これくらいだった。
病院の人の立ち話を聞いたところ、彼はもう五年も病院で暮らしているらしい。病院の外に出たことが殆ど無いのだと。
そんな生活は私にしてみればとても辛いことだと思うけど、彼は全くそう思っていないように振舞っていた。本を読めば自分がその世界に自由に行けるから、と言っていた。
誠司くんを解放してやると、彼は少し後ろに下がり、本棚から少し分厚い小説を取って私に見せた。
「ねね、お姉ちゃん。今度はこの本読んでみなよ。結構面白かったよ」
それは明らかに対象年齢が誠司くんの年齢より高いと思われる表紙の本だった。誠司くんに初めて本を勧められた時は随分驚かされたものだった。
することが無いから読書ばかりしているらしく、図書室の蔵書も随分読んだらしい。さすがに専門的過ぎるものには手を出していないようだけど、小説なら大半に手を出したらしい。私に薦める時はその本のあらすじを大雑把に話すのが常だった。
図書室に行ったのは主治医にそんなものがあると聞いて何となく暇つぶしに行ったくらいだったし、最初に訪れた時に誠司くんと会ったのも偶然だと思う。でも、私は誠司くんに会えたことを感謝している。子供離れした聡明さも、子供らしい無邪気さも、セクハラしてまで私の気を引こうとするところもひっくるめて、誠司くんの色々な顔が愛らしく思えてならなかった。
それに、誠司くんと一緒に遊ぶのは私の楽しみの一つだった。私と遊ぶことで誠司くんが少しでも楽しんでくれるのなら、私は出来る限り彼と触れ合おうと思っている。
やっぱり、辛くないと言葉では言っていても、実際は寂しいのだと思う。本の世界に行けると言っているのは憧憬なんじゃないか。本当は外で走り回りたいんじゃないか。だって、いくら大人びていても、誠司くんはまだたったの五歳なんだから。
外の世界に憧れる気持ちの代わりとなることが少しでも出来るなら、可能な限り一緒にいてやりたいと思う。セクハラだって許してあげる。私はそう決めていた。
今や誠司くんは私にとって弟に近い。もっとも、姉よりも随分と出来が良いけれど。
誠司くんに薦められた本を手に取り、誠司くんと手を繋いで図書室から出た。右手で誠司くんと手を繋ぎ、左手で本を抱えている。これで私服だったら、図書館から出てきた姉と弟だろう。
次に私達が行くところは決まっていた。共同の和室だ。
「じゃ、和室行こっか?」
「うん!」
一応誠司くんに言ってから、歩き出す。目的地はそれほど遠くない。誠司くんと本の話でもしながら歩いているとすぐに着いてしまった。
和室は主に老人向けのスペースで、座布団や座椅子、ちゃぶ台が置いてあり、いかにも和室といった様相だと思う。勿論畳が敷いてあり、日本人としてはじつに落ち着く環境だった。折り紙や裁縫セットなどもあり、子供達に文化を伝える役割も果たしている。
「あ、おばあちゃんだー」
誠司くんが座布団に座ってお茶を飲んでいたおばあちゃんに手を振った。おばあちゃんもまた優しい表情で私達に手を振る。
「さとおばあちゃん、今日も遊ぼうよ」
私は誠司くんと手を繋いだままさとおばあちゃんの傍に座った。
「そうねえ、今日は何にしようかねえ」
ゆっくりとおばあちゃんが喋る。この老人特有の喋り方も誠司くんのお気に入りだ。誠司くんは家族が見舞いに来ることが少なく、私がおばあちゃんを紹介するとすぐに懐いてしまった。今ではおばあちゃんが誠司くんの親代わりなのかもしれない。私と手を繋いだままおばあちゃんの膝に座るという贅沢をしている。
おばあちゃんは皺の多い手で私と誠司くんの頭を撫でながら、
「じゃあ今日は折り紙じゃなくてお手玉でもしようかねえ」
言って、ちゃぶ台に置いてあったお手玉をゆっくり手に取った。
私も教わっているが、なかなか出来ないでいる。三つなら出来るけど、それ以上となるとなかなか出来なかった。それは誠司くんも同じで、上達しようと躍起になっていた。
対して、おばあちゃんは易々と八個ものお手玉で器用に宙に楕円を描いていた。
その達人の腕を見て、私も誠司くんも歓声を上げる。誠司くんもそれに倣って八個のお手玉を持つけど、やはり出来ないようで、時間差をつけて八個のお手玉が彼の顔に襲うのを見て私が笑うと、誠司くんが頬を膨らませ、おばあちゃんがそれを宥めた。
血のつながりなんて無いけど、私達は家族も同然だった。おばあちゃんも誠司くんも楽しそうにしているし、私だって楽しい。
とはいっても、おばあちゃんも私たちと出会うまでは今のように明るい人ではなかったらしい。
おばあちゃんはもう高齢で、階段で転んでこの病院に運ばれて以来ずっと過ごしているらしい。随分長い時間すごしているらしいけど、完治してはいないらしく、まだ病院生活を余儀なくされているという事実が意味しているものは私にだってわかる。
私がおばあちゃんと初めて会った時は、ただ和室でじっと動かないだけの置物のような状態だった。私が和室に折り紙の補充を頼まれた時に、おばあちゃんと話したのがきっかけだ。
おばあちゃんはとても温厚で、子供が大好きだ。色々なことを知っているし、話して飽きない。時々売店でお茶菓子を買っては私達にご馳走してくれる。
「うーん、難しいなあ。どうしておばあちゃんはそんなにいっぱい出来るの?」
四つに挑戦しているが、私は何度も失敗し、おばあちゃんにコツを聞こうとした。しかし、
「どうしてってねえ。ほら、これをね、こうして……」
詳しいことは言わず、ただ実演してみせるだけだった。飽くまで自分で覚えてほしいらしい。しかし、私はお婆ちゃんの鮮やかな手付きにただただ見とれるだけだった。
結局何も掴めないまま再度挑戦し、失敗した。
「あらまあ。でも焦らずやりんさいね。きっと真希ちゃんにも出来るようになるからね」
のんびり急須にお茶を入れながら、いつもの優しい声でそう言われると、何となく出来そうな気がする。きっとまた失敗するのだろうけど。でもそれで良い。どの道私も焦っているわけじゃない。
そう思って、少し遠くに飛んだお手玉を取りに行こうと席を立った瞬間だった。
「よお真希。また失敗してんのか?」
「あひゃいっ!」
首筋に冷たい感触を味わい、本日二度目の悲鳴を上げた。
「もう、それも止めてくださいって言ってるじゃないですか!」
私は振り返って、犯人を見ながらすねた声でそう言った。でも、その人の表情からは、反省どころか楽しんでいる様子が見て取れた。
「いやー、リアクションが実に期待通りでな」
「もう、私だって一応病人なのに……。」
「何言ってんだ。それ言うなら俺だって医者だ。やっても問題ない奴にしかやらんぞ」
それはすることを認める許可証じゃないと思う。でも、そう言ったって無駄だってことも私は知っている。
もう一度、白衣をだらしなく着込んでいるその人を見た。医者とは到底思えないが、私や誠司くん、おばあちゃんの主治医だ。彼は私の視線に気付いたのか、手に持っている飲みかけのジュースを私に差し出した。銘柄を見ると、いかにも体に悪そうな名前の炭酸飲料だった。
「お前も飲むか?」
「いりません」
私はきっぱり断ると、おばあちゃんが淹れてくれたお茶を飲んだ。先生が飲んでいるような炭酸よりもこちらの方が断然好きだ。
「夏の暑い盛りなのによく飲むもんだ。感心感心」
変なところで先生が賞賛する。いまいち気持ちが込められていないけれど。
これで医者だと言っても説得力に書けるかもしれない、といつも思う。大方仕事中に私達を見つけて冷やかしに来たのだろう。
そんな適当な人だけど、患者からの人気は妙に高い。私も何だかんだ言って結構好きな先生だったりする。冗談も通じるし、何よりもその話しやすさから、入院したばかりのおどおどした子供もすぐに心を開いてしまうのだ。
「炭酸飲むよりはずっと良いですよ」
「そうか? 俺はこの体に悪そうなところが好きなんだが。酒もタバコもな」
そう言って私や誠司くんを笑わせる。彼も口元を上げているところを見ると、冗談が成功したとほくそ笑んでいるようだ。
「で、誠司は今日も元気か?」
「うん!」
誠司くんが元気に返事をする。誠司くんも先生が好きなのだ。先生のことが話題に昇ることも珍しくない。
と、先生は誠司くんの耳元に口を近付け、私には聞こえないように小声で何やら囁いた。
それを聞いた瞬間、誠司くんは耳まで真っ赤にして、
「そ、そんなことするわけないでしょ!」
先生の胸をぽかぽか殴りながら怒鳴った。その仕草が妙に子供らしくて可愛い。
「はっはっは、さすがにそんな度胸ねーか」
先生は畳に胡坐をかいて、仕事など忘れたかのように大笑いした。
と、今度はおばあちゃんの方に顔を向けた。
「ばーちゃんも大丈夫か? 覚えの悪いガキどもの相手に疲れたとかはねーか?」
やんわりとした口調で、しかし冗談にしては辛辣なことを言った。けど、おばあちゃんは変わらない口調で、
「おやまあ、そんなことないですよ、せんせ。そんなこと言っちゃ可哀想でしょ?」
やんわりと先生を咎めた。さすがおばあちゃんだ。
「おう。それがわかってりゃ大丈夫だろ。安心だな」
一応先生なりの往診だったようだけど、その割には心臓に悪いと言うか悪ふざけが過ぎると言うか。でも、そんな冷淡にも見える言葉も実際は意味があるのだと思う。私達が感じられないだけで。看護士さんや他の先生もそう言っていた。
それに、先生は私とさとおばあちゃんが出会うきっかけでもあった。
何を隠そう、私に折り紙の補充を頼んだ――というかあれは命令に近かったけど――のは先生だった。その時「いつも和室でぼーっと座ってるばーちゃんがいっから、ちっと話し相手にでもなってやれ」と追加したのだ。
和室にいた老人たちのほとんどは仲良く談笑していたから、「ぼーっと座ってるばーちゃん」が誰かはすぐにわかった。さとおばあちゃんだけが誰とも話さずただじっと座っていたのである。その姿は、ベッドで寝ているよりは和室にいた方がマシ、と言っているようだった。
そんなおばあちゃんを見たら、何となく放っておけなかった。多分、先生に言われなくちゃ気付かずに通り過ぎたのだろうけど。
私が話しかけてみると、おばあちゃんは目に見えて嬉しそうな顔をした。そうして、時に聞き手に、時に話し手に変わり。私と話してくれた。
悪い人じゃないってことはすぐにわかったし、話もすごく楽しくって、私は翌日も来ると約束した。おばあちゃんの身の上話を聞いたのはそれからちょっとしてのことだ。
先生が言うには、私や誠司くんとのコミュニケーションが今のおばあちゃんの生き甲斐らしい。ちょっと大袈裟だと思うけど、そう感じてくれているなら、素直に嬉しい。
たまに私はちょっとだけわがままを言って、肩を揉んであげる代わりに膝枕をしてもらう。そのままおばあちゃんに頭を撫でてもらいながら眠りにつくのが私は大好きだった。
今日は誠司くんに渡しているけど、明日は私が膝枕してもらいたい。今まで、私にはこれほど甘えられる人はいなかったかもしれない。お兄ちゃんにも甘えているけど、このように完全に依存できるほどじゃないと思う。これもおばあちゃんの溢れんばかりの優しさの成せる技なのか。
おばあちゃんと誠司くんと先生。この三人と会えたお陰で、私は入院前と何か変わった気がする。多分、ちょっとだけ人に優しくなれたんだと思う。それは私にとってはとても好ましい変化だった。
と、先生は唐突に白衣の中に手を入れたかと思うと、お手玉を取り出した。それも五個も。
「ばーちゃん、俺のお手玉も見てくれよ。五個くらいなんとかなったぞ」
「えっ、先生いつの間に!」
「ばーっか、能ある鷹は爪隠すって言うじゃねえか。真打は最後に登場するもんなんだよ」
言って、先生は白衣のポケットからお手玉を取り出すと、リズミカルに一つずつ、合計五個のお手玉で宙に軌跡を描き出した。悔しいけど、上手い。
「何でそんなに上手いんですかー」
私がブーイングを出すと、先生は舌を出して、
「天才と凡人の違いって奴だな」
と鼻で笑った。更に私と誠司くんが強く文句を言うと、おばあちゃんが楽しそうに手を叩いた。
「まあまあ真希ちゃんも誠司くんもその辺におしよ。先生もからかうのはその辺にしときんさい。始めたのは真希ちゃんよりもずっと早いじゃない」
「あ、ばーちゃん、それは!」
目に見えて先生が狼狽する。
「だ・れ・が天才ですかー?」
「ちっ、騙せると思ってたんだが」
その先生の言葉を契機に、私達は笑い出した。これがいつもの私達だ。入院して間もない頃は、病院というものへのイメージはあまり良いものではなかったけど、今ではとても楽しくやっている。こんな入院生活だったら何日続いても良いと思わないでもない。
「ところで先生、お仕事は大丈夫なんですか?」
「ん? 当たり前だろ。この仕事熱心な男に何を言ってやがる」
そう先生が言い終えた矢先、看護士の一人が外から、
「広瀬先生ー、看護士長に言いつけますよー」
と言って通り過ぎ、先生の頬に一筋汗が垂れる。
「ふーん。仕事熱心、ですか」
私が彼に聞こえるように呟くと、先生はいそいそと立ち上がった。
「休憩だよ、休憩。人間たまには休まないとな」
しれっとした顔で和室から立ち去った。先生は毎日こうして自分の患者に笑いを振り撒いているらしい。その上で医者としての仕事は他の先生以上にやっているというのだから、そこは尊敬に値する。
ちなみに、看護士長は先生が最も苦手としている人物である。冗談めかした先生のノリが完全に通用しないのだとか。私も以前一度会ったことがあるけど、それに関しては否定の言葉も無い。
先生がいなくなり、興味の対象を移したのか、誠司くんは再びお手玉に挑戦し始めた。相変わらず失敗を続けている。
おばあちゃんはその光景を微笑ましく見ている。私はおばあちゃんの淹れてくれたお茶を飲み干すと、誠司くんに倣ってお手玉を再開する。
相変わらず失敗ばかりで、それでも楽しくて、この時間はかけがえの無いものだと思わせてくれる。
そうしている内に夕日が差してきて、おばあちゃんの鶴の一声で今日はもうお開きになった。
誠司くんを部屋まで送り、私は病院の屋上に出た。三人でひとしきり遊んだ後ここに来るのも私の日課となっている。
この病院の屋上は見晴らしが良く、遠くに連なる山々や広がる町並みが一望出来た。
新緑の季節は過ぎ、今や大地に根ざした無数の木々は自分の緑の衣を自慢し合うかのように息づいている。その姿は病院という世界に閉じ込められている者としてはどことなく痛い。でも、同時に自分もきっとあのように溌剌とした姿になりたいという目標にもなる。
風が髪を攫っていく。見えない手の感触が髪の中で膨らんでいくのを感じながら、私はこの日々がずっと続くのと、元気になって入院前の日常を取り戻すのとどちらが良いのかといつも考える。
おばあちゃんや誠司くんに会うまでは、出来れば早くここを抜け出したかった。味わうことが出来ないからこそ自転車で風を切ることに憧れて、治ったらどこへ行こうかと考えていた。けど、今は別れがたさの方が上回っている。
陽光が明るさと強さを増す季節になった。風も涼気を弱め、心地良さを増している。私は答えを出すことの出来ない疑問に答えてくれる人がいないかと不意に思ったけど、周囲には誰もいないことを思い出し、目を閉じた。
「今はこれで良いよね。考えるのは、治ってからで良いもの……」
手すりに組んだ手を載せ、その上に頭を置いて独り言。いつもと同じだ。答えを出せない代わりに、自分に言い聞かせる形ではぐらかす。
そろそろ部屋に戻ろう。そう思って歩き始めた時、ぎい、と音を立てて鉄製の扉が開いた。
「お、真希か。この時間に会うのは初めてだな」
先生だった。思えば、ここで先生と会うことはしばしばあった。入院したてで話し相手がいなかった時には、私はよくここで先生と会ってはとりとめのない話をしていた。でも、この時間に先生に会うのは初めてだったと思う。
先生は私達患者にとても気を遣ってくれていると思う。誠司くんやおばあちゃんと会ったのも先生がきっかけだった。話し相手が出来ない人同士をくっつけているのではないかとすら思えるけど、これは多分邪推だろう。
「ね、先生。一つ聞いて良いかな?」
「俺は妻子持ちだから、変な気は起こさないよーに」
「違うってば。真面目にさ、聞きたいんだ」
「何だ?」
先生は急に真剣な顔つきに変わった。ふざけている時の彼の顔は緩みっぱなしというか、ともかくだらしないものだけど、重要な時は別人のように真剣になる。今の先生になら、相談出来ると思った。
「私、治って良いのかな? 今こんなに楽しいのに、その日々を失わなければいけないほど、退院って価値があるのかな? 私、ずっと誠司くんとおばあちゃんと先生と一緒にいたいなって。そんなこと考えちゃ、駄目かな……?」
一気にそう言い切って顔を先生に向けると、何やら寂しげな表情な表情をしているのが見え、何かマズイことを言ったのかと心配になった。
「ここが病院じゃなければ、良いのにな……」
苦虫を噛み潰したような表情でそう呟いた先生には、いつもの雰囲気は感じられなかった。
先生は懐から煙草を取り出し、火をつけた。それを口に咥えて紫煙を吐き出すまでの間、私は何も言えないまま先生を見ていた。
「治れよ、絶対」
ポツリと、一言。二人きりで沈黙を作っていたから聞こえたのだろうけど、そうでもなければ風にさえかき消されそうな小さい声だった。
「治るんだったらよ、治っとけ」
「それは……医者としての言葉?」
「医者を何年もやった者の、言葉だな」
それはどう違うのだろう。いや、何か違うのはわかるんだけど、その何かが心のどこかにひっかかっていて出て来てくれない。
「治った後、ここに来て遊んでも構わん。俺が許す。だから、治るんだったら治れ。手放したくないと思えば、この生活を続けることくらい出来るからよ」
その表情に浮かんでいたのは、私よりももっと長い人生を生きて経験したことに由来する渋みというものだろうか。年齢を感じさせない整った顔立ちに浮かんだそれは、似合わないようで、惚れてしまいそうなほど似合っていた。
「治るってのは幸せなんだからよ。きっと、間違いなく」
そう言って、先生は背中を向け、立ち去った。何か言おうと思ったけど、先生の背中と風に舞う白衣が口を開かせるのを躊躇わせた。
でも、先生は私に答えの一つをくれた。医者ならみんな同じようなことを言うのだろうけど、先生の言葉はそれとは違うものに思える。
空にはオレンジ色が増してきた。風も涼気を孕んできた。そろそろ病室に戻ろう。
早く病気を治して、毎日誠司くんとおばあちゃんに会いに行こう。それが多分一番良い道だと思う。
夏が終わるまでには治して、誠司くんに外の話をいっぱい聞かせてあげよう。そしたら誠司くんの病気も治るかもしれない。そう思うと、少し心が躍った。
両手を組んで、天に向かって思い切り腕を伸ばした。
「さて、私もそろそろ帰ろうかな」
夕日は紅に染まっていた。私の影は屋上の半分以上の長さまで伸ばされた。世界が紅く染まる。それは血のような、なんて不吉なものじゃない。紅葉のように美しく全てを彩る、
見るもの全ての心を惹きつける魅力に溢れていた。
入ってきたときと同じ扉を開ける。風がふわっと巻き上がる。私の髪が風に踊る。そうして私の今日は、明日へと進む。
第2章「お兄ちゃんの言葉」
病院の朝は早い。病院ならではの生活習慣というものが存在して、私たちはそれに合わせるしかない。そんな規則正しい生活にも、一部不満はあるけれど、大体慣れた。
その不満の一部が病院食で、なかなか満足出来る量を出してくれない。今は慣らされたけど、最初の頃はとても不満だった。でも、その生活を続けたせいか、いつの間にか私の体重は全国平均より痩せ気味になっていた。知らず知らずのうちにダイエットに貢献するとはにくいものだ。
それだけではない。早寝早起きもすっかり習慣になってしまった。生活習慣は理想的なものになった自信さえある。
でも、この検温と採血だけは相変わらず慣れなかった。
「痛いよ、先生」
採血には当然注射をする。注射を何故か看護師さんではなく先生がやるのが不思議なところだけど、先生がやろうと看護師さんがやろうと痛いことには変わりはない。先生だと失敗しないだけだ。
歯医者などは、痛いと思ったときに手を上げれば止めてくれる。稀に悪質な歯医者がいて、こちらが痛がるのを楽しむらしいけど、この先生は明らかに後者に近かった。
「痛くしてやるのが趣味なんだ」
「悪趣味だよー」
「痛みを感じないと嫌なんだよ。ほら、終了だ。よく泣かなかったな。偉いぞ」
ぽん、と頭に手を置かれ、私は半眼で先生を睨んだ。
「私、もうそんな歳じゃないんですけど」
「はっはっは、俺から見ればまだまだガキだっつーの」
そんな笑いから私の一日が始まる気がする。先生に採血されて、誠司くんとおばあちゃんと遊んで、一日が終わる。それが今の私の日常だと思う。みんな家族と同じくらい、もしかすると家族よりもずっと大切な人だ。
そんなことを思いながら知らず微笑むと、先生がちょっと後ずさった。
「お前、もしかして痛みを喜ぶようになったか……?」
「本気で怒りますよ先生――――――!」
「おー、こわ。じゃなー」
私が怒鳴ると、先生は相変わらずの軽い調子で手をひらひら振って、口笛を吹きながら軽快な足取りで病室を出て行った。
朝から疲労感を覚えるのはなかなか珍しいかもしれない。
今日も病室は真っ白で、汚れなんて全く目立たない。私の前にこの病室を使っていた人がいるはずなのに、その雰囲気が全くしないのが不思議だ。その病室も今は私の色に染まっている。お兄ちゃんが持ってきてくれるゲームや図書室から借りたり売店で買ったりした本がいくつもある。
一日の始まりはまず読書だ。誠司くんたちに会うのは午後からと決めている。たまに誠司くんが私の病室に遊びに来ることもあるけど、普通私たちは午後から会うことにしている。
そうすることに特に理由は無い。強いて言うなら、それぞれが一人で好きなことをする時間を作るためだと思う。それに検査とかの時間もある。遊ぶのは午後からというのが暗黙のルールみたいなものだった。
今日は土曜で、私の家族も休みだ。父さんと母さんは忙しくてなかなか来ないけど、今日はきっとお兄ちゃんが来てくれる。
お兄ちゃんだって暇ではないはずだけど、毎週土曜日に私のお見舞いに欠かさず来てくれる。だからと言って荷物持ちを頼むのはあんまりかもしれないけど、嫌とは言わないから良いことにしている。
それまではとりあえず読書をすることにして、昨日誠司くんに勧められて借りた本を読み始める。
半分ほど読み終えたところで、病室にノックの音が響いた。
「お兄ちゃん?」
「入って良いか?」
「うん、良いよー」
私はいつでも入って良いと言っているけど、お兄ちゃんは許可無く病室に入ったことはない。必ず入ると断ってからだ。親しき仲にも礼儀あり、だそうだ。
「元気そうだな」
無愛想な口調。お兄ちゃんの特徴の一つだ。
「おかげさまで」
「元気なら何よりだ。とりあえず、いつもの持ってきたぞ」
言って、スーパーの買い物袋を顔の位置まで持ち上げる。
「わーい」
私はお兄ちゃんに近寄って袋を受け取る。中に入っているのはうまひ棒だ。あまり良い趣味とは言われないけど、種類もあってなかなかおいしいので、お兄ちゃんに頼んで毎週買ってもらっている。病院の売店には何故か一種類も置いてないのだ。
それにしても、このお兄ちゃんがスーパーでうまひ棒を一度に三〇本もまとめ買いするところを想像すると、それだけで笑える。ちなみに、三〇本入りパックの方ではなく、別々でだ。正直、似合わない。
というのも、お兄ちゃんはかなりの美形なのだ。バレンタインデーでは通学用の鞄より大きなバッグを忍ばせて行って、帰るころには毎年満載になっているという漫画のようなことも起きてしまう。付き合っている人はまだいないというのが私にはかなり不思議だ。
そんなお兄ちゃんが、うまひ棒が沢山入った買い物かごを提げてスーパーを歩いていると考えただけでもおかしかった。
「それにしても、髪長くなったねー」
肩には届かないにしても、男性にしてはかなり長めの髪のお兄ちゃんを見て、私はぼんやりそう言った。
「ほっとけ」
相変わらず愛想のかけらもない口調で言う。でも、どこか照れているようで、そこが何とも言えず可愛らしい。
「調子も大分良いようだな。このままなら退院もそう遠くないんじゃないか?」
「私が退院するのが先か、お兄ちゃんが彼女作るのが先かって言っていた頃が懐かしいね」
「……それは言うな」
私のからかいにも嫌な顔一つ反応してくれるお兄ちゃんはとてもありがたい。お兄ちゃんが来なくなったら、私の家族との接点が無くなるような気がして嫌なのだ。
お兄ちゃんが溜め息をつきながら何やら呟いたけど、小さすぎて私には聞こえなかった。
「何? 何か言った?」
「こっちの話だ」
お兄ちゃんはぴしゃりとさえぎると、私の病室を見回し、枕元に置いてある本を手に取った。
「それにしても、こんな厚い本を読むようになるとはな。病院ってのは読書の時間でもあるのか? 小学校で最近流行っているとかいう、朝読書か?」
昨日借りた本だ。確かに、私は今でこそ本を読むことに抵抗を感じなくなっているけど、入院するまでは、読書なんて夏休みの宿題で嫌々読むくらいだった。。
「ううん、そんなの無いよ。本が好きな子がいてね、その子に薦められたの。前も言ったよね」
「そうだな。しかし、以前は俺が進めた本も読まなかったお前が、随分進歩したものだな」
「う、それは言わないで。今度読むから」
手を挙げて待ったをかける。お兄ちゃんは口元を上げ、にやにやと笑う。
「ひょっとしてそいつは男か?」
ストレートなお兄ちゃんの言葉に、私は思わず肩が落ちる。いつも鈍感と言われている私でも、こんなやり取りが何回もあればさすがに察しがつく。
「あ、あのね、お兄ちゃん……」
「ん、どうした?」
「その子、男の子って言えば男の子なんだけど」
私の言葉で何となくオチがわかったのか、お兄ちゃんは眉間に軽くしわを寄せた。
「何歳なんだ?」
「まだ五歳」
今度はお兄ちゃんの肩が下がった。さっきの私よりも大きく。漫画で言うなら『がくっ』という効果音が付きそうなくらいだ。
「せっかく妹の成長を喜べると思ったら……」
「何、妹の成長って?」
「いや、文字通りの意味だが」
「何かひっかかるんだよねー」
私は頬を膨らませた。お兄ちゃんは冷然とした態度をすっかり崩し、私のベッドに腰掛けると、買ってきたうまひ棒に手を伸ばした。
「あ、それ私のー」
「お兄様を落胆させた罰だ」
近づこうとする私の額を左手で押さえ、右手でうまひ棒を食べる。敢えて私を利き手で抑えない余裕が若干腹立たしい。ちなみに、お兄ちゃんが自分のことをお兄様と呼ぶときは、決まって私をからかうのだ。さすがに片手では袋を開けられないから口で開けるというはしたない真似もするけど、そこは兄妹だから。
「ってか、これ俺が買ってきたんだろうが。俺が食って何が悪い」
「そうだけどー」
私のことなどすっかり無視し、お兄ちゃんは二本目のうまひ棒に手を伸ばした。一番新しい『梅おにぎり味』だ。
「あー、それ好きなのにー」
「また買ってきてやる」
それだけ言うと、何のためらいも無く口に含んだ。と思うと、食べかけを私に突きつけた。
「食うか?」
「なわけないでしょ!」
言い返しても、お兄ちゃんは笑うだけで、特に反省の色は見せない。時々このように意地悪になっては私が困るところを見て喜ぶのだ。悪趣味にもほどがあると思う。
「ま、お前も早く病気を治すことだ。もうそろそろ受験の準備で忙しくなるだろ」
「う、そういえば……」
「お前もあと一年もしない内に高校生か」
病院にいると、さすがに勉強を教えてくれる人はいない。自学自習しなくてはならないだろうけど、どうしてもする気になれなかった。
「ねえお兄ちゃん」
「お前が猫なで声でそういう時は、何か厄介ごとを持ってくると相場が決まっている」
「そんなこと言わないでさあー」
「ま、大方勉強教えてくれってことだろ。構わんぞ」
「やった、お兄ちゃんに教えてもらえればきっと大丈夫だよー」
言って、私はお兄ちゃんに抱きついた。友達はここまでしないようだけど、私たちは結構歳が離れているし、あまり抵抗はなかった。
お兄ちゃんも抵抗することはなく、抱きつかれたままになっている。それどころか、私の頭を軽く撫でてくれている。
お兄ちゃんは現役の大学生だ。しかも、有名な大学の医学部にいる。そのお兄ちゃんに教えてもらえば鬼に金棒だろう。
お兄ちゃんは、まだ私が生まれていない時に大病にかかったらしい。詳しい話は聞けていないけど、死の危険もあったらしい。その時入院していた病院でも匙を投げられていたそうだ。
そこまでは穏やかでない話だけど、偶然東京の大きな病院から研修に来た医師がお兄ちゃんの病状を見、治るまで親身になって治療してくれたと私は聞いている。お兄ちゃんが医者を目指しているのはその経験が一番の理由らしい。
私がこの病院に入院したのはお兄ちゃんの推薦だった。大学病院に入れるよりも遥かに良いと言って譲らなかった。
本当は、詳しい病気の原因がわからない私のような人間は、大学病院のような専門的な機関に入った方が良いらしい。けど、私はお兄ちゃんが珍しく強硬に主張したから、病院をここに決めた。お兄ちゃんは無責任な言動を取らないと信じていたから。
そのお陰でか、今私は快方に向かっている。この病院には希望が満ちている気がする。施設柄宿命だと思うけど、病院という場所には常に死の影が付きまとう。大病の人が多ければ多いほど、その影はより色濃いものになる。でも、この病院にはそれが無い。
多分、大学病院に入って毎日精密検査をしていたら、私はすっかり気が滅入っていただろう。もしかすると、死の影が常に背後にいたかもしれない。そう考えると、今私がここにいることは正解だったと思う。
これは私のエゴだと思う。詳しい検査を受ければ、もしかすると私と同じ病気にかかった人が助かるかもしれないのに。
それでも、私はこの病院で過ごす一日が大切で、手放したくない。私がこう思っていることはお兄ちゃんにも言っていない。昨日先生に言ったのが初めてだった。
私が猫のようにお兄ちゃんにくっついていると、不意に病室のドアが音を立てて開いた。
「むう」
何となく間の抜けたその声の主は、先生だった。私が肩越しに振り向くと、先生が苦い表情をしているのが見えた。
「どうしたんですか、先生?」
「どうしたもこうしたもなー」
先生は言いづらそうに頭を掻いていたけど、やがて溜め息を一つ大きくつくと、
「真希。お前はもう少し慎みを知った方が良いと思うぞ」
呆れた様子で言った。
「へ?」
思わず声が裏返った。慎みといわれても、私には思い当たらない。
だけど、私が抱きついているお兄ちゃんは、同意を示すかのように何度か頷いていた。
「ねえお兄ちゃん、どういうこと?」
わけがわからず私が聞くと、その答えはお兄ちゃんからではなく、先生の方から語られた。
「真希。お前は男女が抱き合っている様子を見たら何と思う?」
「え? そうだなあ。羨ましい、とか?」
「妹を見捨てないでやって下さい、先生」
私が答えると、すかさずお兄ちゃんが言った。冗談めかした口調だけど、その真意は私にはわからない。内緒話を目の前でされているような悔しさがあった。
先生は私たちをびしっと指差した。
「その状況」
「この状況?」
私は思わず自分の周りを見回した。
「男女が抱き合っている状態を見て、余程脳細胞がやられていない限り、まず思うのはその二人が付き合っているのでは、ということじゃないか?」
「それは否定しませんけど……」
「お前たちもそう見えるって言いたいわけだが、伝わるだろうか?」
先生は、顔をお兄ちゃんの方に向けた。
「難しいところだと思います。ですが、真希もいい加減中学三年。わからないようでは俺が困ります」
頭上でそんなやり取りをしている二人はさておき、私はようやく先生が言わんとしていることが何なのか気付いた。
「わ、私たち兄妹ですよ?」
先生とお兄ちゃんとの会話に割って入る形で言った。すると、二人は一瞬会話を止め、また顔を向き合わせた。
「よかったじゃないか、良介」
先生の言葉に、
「はい、安心しました」
言葉通り、心底安心した様子のお兄ちゃん。良介はお兄ちゃんの名だ。
「だ、だから、私たちは兄妹なんだから、こんなことしても、その、付き合ってるとかじゃなくて!」
私は主張を伝えようと少し大きな声で言った。
「真希。初めてお前たちを見た人が、果たしてお前たちの関係を見抜くと思うか? 恋人と思うほうが先じゃないか? 似ているようで似ていないんだから、お前たちは」
「うっ……」
「だから慎みを持てと言っているんだ」
私は反論できずに押し黙った。
「お兄ちゃんは何も言わなかったし……」
苦し紛れに言ったけど、
「俺はお前を抱きしめてはいなかったろ?」
あっさりと返された。とりあえず、お兄ちゃんからそろそろ離れることにした。お兄ちゃんは余裕たっぷりに私の頭に手を載せると、髪をくしゃくしゃにするように撫でた。
私が幼いときから、お兄ちゃんは私が困るといつもこうしてくれた。それが何だか心地良く、私は目を少しきつく閉じてされるがままにされていた。
「ま、うまひ棒でも食べて元気を出せ。最近のうまひ棒は根性があってな。キャラメル味にチョコレートを、ココア味にホワイトチョコを付着させたり。それでも値段は変えないんだからさすがと言うべきか」
言いながら私にキャラメル味を渡し、自分はココア味のパッケージを開けていそいそと食べ始める。
値段を変えないためには短くせざるをえないのだろう。そんな営業努力が随所に窺えるうまひ棒という食品が私は大好きだ。
「さて」
先生が振り返って歩き出した。どうやら仕事に戻るのだろう。相変わらず何が目的かいまいちわからない人だ。
「お疲れ様です」
と、お兄ちゃんが背中を向けたままの先生に頭を下げた。先生は振り向かずにひらひらと手を振り、それに答える。
その姿を見て、まるで二人が旧知の関係のように感じた。でも、私の知る限り二人は初対面だ。そのことに若干の違和感を覚える。
先生に会ったことあるの? そう聞こうと思ったが、お兄ちゃんは先生がいなくなってもしばらくドアの方を見つめていた。
「お兄ちゃん?」
と、私が呼びかけると、お兄ちゃんはようやく我に返ったように、
「ああ、どうした?」
私に向き直って答えた。
二人にはきっと何か関係があるのだろう。でも何となく、今はそれを聞くのは気が引けた。だから、話題を変えることにする。
「今日はいつまでいれるの?」
お兄ちゃんはたいてい昼までには帰るのだけど、今日はもう既に午後一時を回っている。先生とのやり取りのせいで看護士さんが入れなかったんだろう。多分昼食は病室の外に置いてあるはずだ。
お兄ちゃんは時計を見ると、少し眉間にしわを寄せて考え、間もなく口を開いた。
「今日は夕方までいてやるよ。珍しく何の予定も無いんだ」
その言葉は疑わしいものがあったけど、素直に甘えることにした。それなら誠司くんとおばあちゃんを紹介してみようか。
そういえば、そろそろいつも誠司くんに会いに行く時間だ。早くご飯を食べて、図書室に行こう。
何となく、いつも繋いでいた腕が遠い。先生があんなこと言うからだ、と心の中で苦情を言った。
お兄ちゃんはそんなわたしのことなんて全く気にしていない様子だった。長く伸びたツヤのある細い髪が、歩くのに連れて左右に揺れる。女装したら女子大にも入れそうなほど整った顔立ちだから、尚更その髪が映える。
思えば、昔ショートだった私が髪を伸ばしたのは、お兄ちゃんの髪に憧れたからだった。私はお父さん子でもお母さん子でもなく、言うなればお兄ちゃん子だった。だから、お兄ちゃんの持っているものに憧れていたのだと思う。
「どうした?」
そんなことを考えていると、お兄ちゃんがそう聞いた。
「あ、えっと、何でもないよ。うん」
不意に声をかけられたので、つい焦って答えてしまう。
「先生に言われたことでも気にしているのか?」
いきなり核心だった。私は返事をせず、ただ曖昧に頷くしか出来なかった。
「変に意識する方がかえって不自然だ。気にしなくて良い」
「うん……」
例えそう言われても、一度意識したことをそうそう変えられるわけもない。結局何となくいつもよりも大きく距離を取り、図書室に到着した。
図書室は当然いつものように喧騒に溢れていて、病院らしさを感じさせないエネルギーに満ちている。大量の本からのインクくささが、図書室を病院内とは思えない空気にしてくれる。
お兄ちゃんをここに連れてきたのは初めてだった。お兄ちゃんは少なからず興味を引かれたようで、図書室内を眺めている。走り回る子供や小さな子供に絵本を読み聞かせる老人たちの姿をゆっくり見回し、お兄ちゃんは珍しく目に見えるほど嬉しそうだった。
「やはり良い病院だな、ここは」
おもむろに中に入ると、入り口に一番近い位置にあった本棚にざっと目を通した。
「本もなかなか充実しているじゃないか。少し小説に偏っているが、品数も充実しているな」
「でしょ? 私も沢山読んでるんだよ」
妙に感心しきりのお兄ちゃんを見て、私は先ほどまで感じていた気まずさから解放された。一気に距離を詰め、一緒に本を見ることにした。
お兄ちゃんは私が距離を詰めたことなど気にかけなかった。むしろ私が近くにいることなど当然とでもいうかのようだった。多分、私とお兄ちゃんとの距離感はこのくらい近い方が自然なのだろう。そう考えて、少し嬉しくなる。
そうしてしばらく、お兄ちゃんと本をとってはああでもないこうでもないと批評しあっては返すということをやり続けていた。
そうしてもう何冊目か数えてもいない本を棚に返そうとしたとき、お兄ちゃんが素早く私の背後に素早く手を出した。
「え?」
驚いたというより、突然のことに理解が追いつかないといった感じの声。
「そういったことは確かに子供の特権だろう。だが、もう少し場所をわきまえることだな」
お兄ちゃんが淡々と言った。私は事態のおよその予想をして、後ろに目を向けた。そこには私の想像したとおりの人物が立っていた。
「誠司くん」
「お姉ちゃん、えっと……」
「未遂に出来たからともかく、これからはもっとタイミングを見極めるんだな」
お兄ちゃんが説教をしている間、誠司くんは私に助けを求めるような声を上げた。いつも私が大目に見ているから、まともに怒られて戸惑っているようだ。まあ、怒られて当然のことをしているのは事実だけど。
「お兄ちゃん、あのね」
とりあえず、今は誠司くんを助けるのが先決だろう。私はお兄ちゃんの袖をくい、と引っ張った。
「何だ真希。すまんがもう少し待ってくれ。今将来の犯罪を未然に――」
「違うのそうじゃなくて!」
お兄ちゃんの言葉を遮り、私は掴んだままのお兄ちゃんの手を強く引っ張った。でも、お尻を触られるのを容認していると言ってしまうと怒られる気がする。何か上手い言い訳を頭を高速回転させて探した。
「お兄ちゃん、ちょっと良いかな?」
視線で「外に出よう」と促した。勿論お兄ちゃんがそれをわからないわけがない。お兄ちゃんは軽く頷いて、私に続いて図書ルームの外に出た。
「何だ?」
お兄ちゃんが不思議そうな表情で尋ねる。確かに普通の感性を持っている人なら、女の子がセクハラをされそうになったら止めようとするよね。
「あのね、さっきの子、誠司くんっていうの。私に本を薦めてくれた子なんだけど……」
「ほう、アイツがか」
お兄ちゃんがここまで不機嫌になるのは久しぶりだ。私が子供の頃は、気が弱く、背も低い私をよくいじめっ子から守ってくれたっけ。
「誠司くんね、すごく重い病気らしいんだ……。私よりも、ずっと」
お兄ちゃんは何の言葉も返さなかった。だから、私はお兄ちゃんが次の言葉を発するよりも早く、言葉を続けた。
「何回もお尻触られたりされたけど、でもね、誠司くんがそういうことするのって最初だけなの」
「それは、その日会った時だけってことか?」
お兄ちゃんが聞き返す。私は頷いて更に続けた。
「多分ね、誠司くん、私に気付いてほしくてやってるんだよ。私ね、たまにだけど、触られて振り返ったとき、誠司くんがホッとした顔になるのを見るの。きっと、寂しいんじゃないかな……。お父さんやお母さんはお見舞いに来てくれないって言ってたし」
お兄ちゃんは顎に手を当てて、考える仕草をしている。
「私ね、馬鹿だけど、何か誠司くんのためにしてあげたいの! 私なんかには話したり一緒に遊んだり本のお話とか聞くことしか出来ないけど……それでも何かやってあげたいの」
私はそこで一旦言葉を切った。さっきからあまり口を挟まず聞いているお兄ちゃんの反応が気になった。けど、少し待ってもお兄ちゃんは無言のままだった。
「駄目かな……?」
私にはかなり長い時間に思える沈黙の後、お兄ちゃんは大きく溜め息をついた。
「お、お兄ちゃん?」
「仕方ないか。今回は許してやろう」
やれやれと首を振り、お兄ちゃんが言った。
「ありがとう、お兄ちゃん!」
私は思わずお兄ちゃんに抱きついた。
「こらこら。さっき先生に色々言われたばかりだろうが」
「それとこれとは別だもーん」
「現金な奴だな、まったく。ま、それにしても」
お兄ちゃんは私に抱きつかれたまま、器用に腰に手を当てた。
「それにしても、何?」
顔だけ上げて、お兄ちゃんの顔を見る。密着しながら背が高いお兄ちゃんの顔を見るのは大変だ。
「お前も成長したな」
口元に微笑を浮かべ、はっきりとお兄ちゃんが言った。
お兄ちゃんが素直に私を褒めることは滅多に無かった。だから、最初その言葉を理解できなくて、でもその言葉が意味するところをわかった時、
「え、え、あ、あの、お兄ちゃん?」
戸惑いと恥ずかしさが一度に襲ってきて、顔を真っ赤にしてしまった。でも、そんな私とは対照的に、お兄ちゃんは悠然としたものだった。
「そう思ったから言っただけだ。さ、戻るぞ。待たせては悪いだろう」
私の手を優しく外し、そのまま私の手を引いて歩き出した。最初はされるがままだったけど、やがて私も足並みを揃え、お兄ちゃんの隣を歩いた。嬉しさから、つい口元がにやけてしまう。
あらためて図書ルームに入ると、誠司くんが入り口で待っていた。不安げな表情でお兄ちゃんを見上げている。時々私に視線をやり、助けを求めている。
今までに見たことのない誠司くんの姿が可愛くて、つい頭を撫でる。何があったかわからないという顔をしている。
お兄ちゃんは誠司くんの前でしゃがみ、目線を合わせた。頭上から見下ろされると子供は威圧感を感じるらしい。お兄ちゃんはそれを知っているようだ。
「怖がらせて、すまなかったな」
ふっと微笑み、優しい言葉をかける。お兄ちゃんは意地悪なところもあるけど、本質はとても深い優しさを内に秘めている人だ。それは私が一番知っているつもりだ。お兄ちゃんは意地悪はしても、酷いことは決してしなかった。
話すのが苦手で、特に親しい人以外に頼られるのが苦手。私の前では余裕に振舞っているつもりだろうけど、お兄ちゃんの弱い部分も私は知っている。でも、そんなことは言わないでおく。お兄ちゃんが優しいことに変わりはないんだから。
お兄ちゃんの優しさに触れ、誠司くんはすっかり落ち着きを取り戻したようだった。それどころか嬉しそうな顔をしている。その表情は、私やおばあちゃんに見せるのとは少し違って見えた。
「あ、あの、お姉ちゃん」
「なーに?」
「えっと、この人って結局誰なの?」
誠司くんが首をかしげて尋ねた。そういえば、先ほどからお兄ちゃんと呼んでいたけど、紹介はしてなかった。
「えっとね、この人は私のお兄ちゃんだよ。結構歳は離れてるけどね」
「そっか。お見舞いに来てくれたの?」
「うん、毎週お見舞いに来てくれるんだよ」
言ってから、はたと気付いた。これはちょっと不謹慎な台詞だったかもしれない。誠司くんには誰もお見舞いに来ないと、先程お兄ちゃんにいったばかりなのに。
「羨ましいなー……」
案の定、誠司くんは寂しげな顔を浮かべ、ポツリと呟いた。私は何かかける言葉を探したけど、こんな時に限って上手い言葉が浮かんでこなかった。
と、私が慌てふためいているところに、お兄ちゃんが誠司くんの頭にぽんと手を置いた。
「来週からは俺が見舞いに来てやる。それならどうだ?」
言葉こそ淡々としているけど、顔は穏やかに笑っていた。
繊細な心を持った子供を一言二言で納得させてしまうお兄ちゃんは、やっぱりさすがだと思う。私より多く体験した六年間がその源なのだろうか。だとしたら、私もお兄ちゃんと同じくらいの年齢になったら、お兄ちゃんと同じくらいの慈愛をもつことが出来るだろうか。
そう思うと、羨ましいと思うのと同時に嫉妬のような心が生まれてくる。そしてそれは、私がまだまだお兄ちゃんに及ばないと自覚させ、少し落ち込ませるのだった。
とはいえ、今は誠司くんが元気を取り戻してくれたという安心の方が強かった。
と、笑顔に戻った誠司くんが、ふと時計を見て声を上げた。
「あ!」
「ど、どうしたの?」
「おばあちゃんのところに行ってないよ、まだ」
「あっちゃー、もうこんな時間だよー……」
決しておばあちゃんを忘れていたわけではないのだけど、他に色々あって和室に顔を出せずにいた。いつもお別れをする時刻まで一時間と無かった。おばあちゃんは果たして今も待っていてくれるのだろうか。
そう悩んでいると、お兄ちゃんが私の頭を軽く小突いた。
「何やってる」
「え?」
唐突な質問に、私はつい首を傾げた。お兄ちゃんはそんな私に、
「待ってる人をいつまでも待たすな。考える前にさっさと会いに行くぞ」
今度は背中を少し強く押しながら言ってくれた。
そうだった。おばあちゃんが待っているか考えるより、まず会いに行かなくてはどうするのだろう。
「うん!」
私は笑顔でお兄ちゃんに返事をした。
お兄ちゃんがいると、自分がものすごく頼りなく感じられてしまう。それはやっぱりお兄ちゃんへの甘えが自然と出ているのかもしれない。それとも、お兄ちゃんがどんな時でも私を支えてくれるからかもしれない。
いずれにせよ、私は誠司くんの手を引いて、早足で歩き出した。走ることは先生から止められているので、これが今の私に出来る精一杯だった。
和室についてすぐ、中を覗いた。おばあちゃんにいてほしいという期待と、おばあちゃんを待たせてしまったことへの申し訳なさが私の心の中で入り乱れていた。
さほど広くない和室で人を探すのは難しくない。おばあちゃんがいるかどうかはすぐにわかる。
「おばあちゃん!」
おばあちゃんは、いた。私が初めて会った時のように、寂しそうに一人で座っていた。
私が駆け寄ると、いつも見られないくらいの速さで顔を上げた。その顔は、しわが目立ち表情の読みにくい顔からも明らかにわかるくらい嬉しそうだった。
「ごめんね、色々あって来るの遅れちゃって……」
いつもよりずっと遅い時間に来た。それなのにおばあちゃんは待っていてくれた。そのことに嬉しさを感じる一方で、同時に罪悪感も感じていた。
そのことに耐え切れずに私が頭を下げると、おばあちゃんはそっと私の頭に手を置くと、感触だけでわかるほど優しく撫でてくれた。
「ごめんねえ、真希ちゃん。私もね、検査で遅くなっちゃったんよ。だから、今日は真希ちゃんに会えないと思ってたんよ。ごめんねえ、言うの忘れてて」
その言葉は多分嘘だ。いくら鈍感な私でも、それくらいわかる。
「だからねえ、今日も真希ちゃんに会えて良かった良かった」
優しい。おばあちゃんはどうしてこんなに優しいんだろう。
誠司くんがおばあちゃんに抱きつくのが気配でわかった。私もおばあちゃんに抱きついた。今日会いに行くのが遅れた分だけ、せめて多く触れ合いたかった。
おばあちゃんが私と誠司くんの背中をぽんぽん叩く。おばあちゃんは、嬉しい時によく撫でたり背中を叩いたりする。だから、きっとおばあちゃんは、今嬉しいんだろう。
「あ、今日はね、おばあちゃんに紹介したい人がいるの」
しばらくして落ち着いた後、私はおばあちゃんから少し離れ、和室の入り口に顔を向けた。
「今日はね、お兄ちゃんがいるんだ。お兄ちゃん、こっち来なよー」
入るタイミングをつかめなかったのか、入り口で立っているお兄ちゃんに手招きした。お兄ちゃんはようやくか、という顔をして入り、私の傍に座った。
「はじめまして。真希の兄の良介と申します。いつも真希がお世話になっております」
おばあちゃんに向かい、恭しく挨拶をする。それを見て、おばあちゃんは感心したように頷いた。
「ご丁寧にどうねもねえ。最近の若い子なのに立派ねえ。こんなに礼儀正しく挨拶されたんは初めてよ」
確かにお兄ちゃんの挨拶は完璧だった。若い人が疎かにしがちな礼儀というものをしっかり守っている。それがまたお兄ちゃんによく似合うのだった。
「良介お兄さん、僕にも優しくしてくれたんだよー」
誠司くんが嬉しそうにおばあちゃんに告げる。
「おお、良かったねえ。真希ちゃんに似て良い子なんだねえ」
「いえ、僕はそんな……」
おばあちゃんに褒められても、お兄ちゃんはあくまで謙虚な姿勢を崩さなかった。
お兄ちゃんはどんな年齢を相手にしても話が上手い人間のようだ。決して話すことが好きな人間ではないのだけど、それとこれとは違うらしい。
おばあちゃんと誠司くんと遊んでいてもそれはわかった。老人や子供だからといって、決して敬意を忘れることはない。かといって相手と距離感を感じさせない話術はさすがだと思う。
いつもと少し違った雰囲気のまま、おばあちゃんたちとの時間は瞬く間に過ぎていった。
おばあちゃんたちと別れ、私はまた屋上にきた。今日はお兄ちゃんも一緒だ。
風が私たちを包む。夏の夕方の風はとても優しい感じがする。一人で風を浴びていることが多いので、お兄ちゃんと屋上に来るのは初めてだった。
この病院は、私が住んでいた町からそんなに離れていない。県の中心地から離れる方に三駅くらい電車に乗れば、この病院のある町に到着する。
私の家の周りは住宅地に囲まれていて、何やら息苦しい。それなのに、ここに来るだけで全く違う景色を見ることが出来る。距離にしたらそう離れているわけではないのに、それが不思議だった。
そろそろ日が沈む。夕焼けで世界が紅く染まっていく。先日先生と会ったときのような、美しい夕焼けだった。
「こんな美しい景色、見たこと無いな」
手すりに手をおいて景色を眺めていたお兄ちゃんが、ポツリと呟いた。その言葉が私には意外に思えた。
「嘘ばっかり」
「嘘なんか言うか」
二人で真っ白に塗られている手すりに腕をのせて、言い合った。
「私より六年も長く生きているくせに」
「嘘じゃない」
お兄ちゃんは体の向きを変え、手すりにもたれた。それじゃあ折角の美しい景色が台無しじゃない、と私が言う前に、お兄ちゃんは口を開いた。
「今まで、景色なんか目に留めないで生きてきた。それほどの余裕も持っていなかった。そのことに今気付いたんだ」
「余裕が無い? お兄ちゃんが?」
私は疑問符を浮かべた。弱さがあるのは認めるけど、お兄ちゃんはいつも余裕綽々な人だった。そんなお兄ちゃんに余裕が無いとは信じられなかった。
「俺は医者になるのが夢だ。そのために、勉強することしか考えていなかった。勉強して、本を読んでの毎日だった。景色に目を留めて、眺めるなんて今まで考えもしなかったんだ。それほどに勉強に追い詰められていたのかもな」
その言葉の通り、お兄ちゃんは勉強ばかりしていた。私が物心付いたときには、既に勉強の虫だった。それが医者になるためだというのは、早いうちから知っていた。でも、お兄ちゃんがそれで追い詰められていたというのは知らなかった。
「思えば、起きてから寝るときまで勉強してきた。お陰で医大に入ることが出来て、将来は医者になる見込みがある。だが」
お兄ちゃんはそこで一拍置いた。私に聞かせるためだろうか。私がお兄ちゃんの言葉を飲み込む時間を与えていたのか。
「この世界の価値は、自分がやりたいことだけにあるんじゃないんだな。こんな何の変哲もない景色さえも大切に思える。それに気付いて、自分が急に小さい人間に思えてきたんだ」
風に乱される髪を押さえ、お兄ちゃんが続けた。
「だから、今はまともに見ることが出来ん。この一時が俺には眩し過ぎる」
それが背を向けた理由だろうか。
でも、お兄ちゃんがそう思ったって関係ない。お兄ちゃんが凄い人だってことは、私にとって尊敬に値する人だってことは、私の中では変わらないから。
その気持ちを伝えたかった。私のような人間の言葉では言っても仕方ないだろうけど。
「私ね、お兄ちゃんに感謝してるよ」
「感謝?」
「うん。すごくね」
「される覚えはないんだがな」
お兄ちゃんが不思議がる。私は手を広げて、
「ここを紹介してくれてじゃない?」
病院全体を包む感じで両手を広げながらターンし、笑顔で言った。
「良い病院に入れたかったんだ」
お兄ちゃんはほんのり顔を赤らめて、まるで照れ隠しと言わんばかりだ。そのために口調も無愛想になる。感謝されることに慣れてないのだ。
だから、私はもっとお兄ちゃんをいじめることにした。
「ありがとっ、お兄ちゃん!」
お兄ちゃんに抱きつき、胸に顔を埋めてそう言った。お兄ちゃんがどんな顔をしているかは分からないけど、早まる鼓動が雄弁に物語っていた。
もっといじめても良かったけど、そのくらいで許すことにした。
お兄ちゃんに倣ったわけではないけど、風に流されるままの髪を手で押さえた。
「でもね、私、ホントにエゴイストじゃないかなって思うんだ」
私のいじめから解放されたお兄ちゃんは、突然私がそう言ったことを不思議に思ったようだ。眉間にしわを寄せ、私の言葉を待っている。
「私みたいな原因不明の病気の人って、大学病院で色んな検査受けた方が良いんでしょ? その方が、私と同じ病気になった人が助かるかもしれないから。でも私、ここから離れたくない。ただ、ここが良いところだからってだけで。それって私のエゴだよね……」
言葉の途中から、私はお兄ちゃんに背を向けた。
今まで言うのは気が引けていた、今の生活に満足することへの罪悪感だった。それを吐露する気は今までなかったけど、何故か私の口をついてスルリと出て行ってしまった。
「馬鹿者」
ぺし、という音。頭上での痛み。
お兄ちゃんに頭を軽く叩かれた。加減が利いているところはさすが医者の卵か。
「え?」
「それのどこが悪い」
「だ、だって……。私、自分のことしか考えてないよ? 将来のためとか何も考えてないよ?」
お兄ちゃんの言うことがわからなかった。私の心は罪悪感でいっぱいなのに。
「だからどうした?」
「どうしたって言われても……」
「お前が治ることが優先だ。治療データがあった方が良いのは事実だ。だがな、お前が生きていなかったらどうする。そんなもの治療じゃない。実験だ」
私は何も言い返せない。お兄ちゃんは更に続けた。
「先生だってデータは取ってるはずだ。そりゃ大学病院の設備に比べたら劣るだろうが、それでも役には立つはずだ。お前が心配することじゃない。自分の体を治してから言え。それまでは無用の自己犠牲なんて持つな」
「無用だなんて……。私だって悩んでいるんだよ?」
「俺にとって、お前が生きていることほど重要なことは今のところない。そのためなら、他人の命は少々犠牲になってもらっても構わない」
その言葉は、お兄ちゃんが放ったとは思えないくらい激しいものだった。それほど私を大切に思っていてくれていて嬉しいけど、複雑な気分だった。
「……医者の卵が言う言葉?」
私の中にある、優しいお兄ちゃんの姿。その人は、私のためなら他人を犠牲にしても構わないという人じゃないはずだった。
「かもな。この時点で失格かもしれん。だがな、存在することしか知らない数万人の他人より、ずっと同じ場所で生きてきた妹を大切に思って何が悪い」
そう言うと、お兄ちゃんは私を抱き締めた。初めて私を抱き締めた。
「生きろ。そのためには他人のことなど構うな。そんなことは生きて考えろ」
それはお兄ちゃんの真心だと思う。一度死に掛けた人間だからこそ感じる生への執着だろうか。
「うん……」
その思いにはただただ圧倒されるばかりだった。頷くことしか出来ない重みが伝わってきた。
私がエゴイストかもしれないという気持ちはまだ消えていない。けど、それでも良いのだと今なら自分を納得させることが出来る。
先生が言った、治るということは幸せという言葉。それは生きていられることは幸せという言葉。その言葉の意味がやっとわかった気がした。
私は生きよう。絶対に。
お兄ちゃんの腕の中、私は改めて心に決めた。
第三章「今日から変わる毎日」
一週間後、再びお兄ちゃんが訪れた。今日はいつものうまひ棒の他に、お兄ちゃんが通学に使っているショルダーバッグも持参していた。
ベッドに腰掛けたお兄ちゃんは、重そうな荷物を置いて汗を拭った。額には少し汗が滲んでいる。もともと体力が無い人なのだ。その上全面黒い出で立ち。汗をかくなと言う方が無理だろう。
私もそろそろ衣替えをした。半袖のパジャマを着、熱気に負けない気構えだ。私達が済んでいるのは北のほうだし、夏も東京よりも格段に涼しい。だから季節は夏真っ盛りでも、私達のような寒がりの人間は長袖でも問題ないことが多い。今日から半袖になったのは、さすがに熱く感じたからだ。
「夏の熱気を甘く見ていた」
疲れたように俯きながら、お兄ちゃんが語る。
「一体どう考えたらそんな格好で来ようとするかな」
「寒がりなんでな」
「限度があると思うよ?」
「家を出て数分でその可能性に気付いた」
淡々と、疲れた声で語るお兄ちゃんを見ながら、私はそれでも嬉しさを感じていた。この荷物の中身が何か知っているのだ。
先週、お兄ちゃんに勉強を教えてもらうように頼んだのだ。先週のごたごたにもかかわらず覚えていてくれて、内心嬉しい。
勉強は嫌いだけど、お兄ちゃんが教えてくれるなら興味を持てるかもしれない。何しろ、私は実は高校受験を控えているのだ。中学二年の秋に入院して以来、さっぱり勉強していないので、不安だった。
そう。昨年の秋、夏の気配が遠ざかろうとしていた頃、私は突然病魔に襲われた。
朝が弱い私が珍しく早朝に目を覚ました。今でも覚えている、午前五時二七分。時計の数字がやけに脳裏に焼きついているのは、立っていられないくらいの痛みに耐えかねてしゃがみ込んでから、お兄ちゃんが犬の散歩を終えて帰って来るまでの長い時間、目の前に時計があったからか。
鋭い痛みに耐えられず床をのた打ち回っていると、戻ってきたお兄ちゃんが慌てた様子で私を介抱したのだ。その時の腕の暖かさは忘れられない。
お兄ちゃんは私を見るなり、慣れない手付きで触診などを済ますと、時計を見た。舌打ちを一つすると、携帯を取り出して一一九番に電話をかけた。電話の応対をした後は、すぐに父さんと母さんを起こし、状況を説明した。私は朦朧とする意識の中でそれをぼんやり聞くことしか出来なかった。
当然その日学校に行くことなど出来なかった。というより、その日以来学校には行っていない。
朝、お兄ちゃんは大学を休んでまで私に付き添ってくれた。地元のそこそこ大きい病院に一緒に行き、診察を受けたのだが、原因が全く特定出来ないとのことだった。私は意識を保つので精一杯で、お兄ちゃんと医者の言葉のやりとりはほとんど覚えていない。
お兄ちゃんは、私を入院させるのだったら希望が丘病院――今私が入院しているところ――と決めていたようだ。大学病院に行かずに地元の病院に行ったのは、近場というだけじゃなく、入院出来るほど大きい病院じゃないからだと言っていた。
朝、地元の病院で診察を済ましたあと、私は兄の運転する車に乗せられて、希望が丘病院に到着した。父さんは最初大学病院に行こうとしたが、兄がそれを制止したのだ。
私の意識はその時点で途切れていた。その後の記憶は三日間無い。どうやらずっと意識不明のまま、生死の境を彷徨ったらしい。
無自覚に生きるか死ぬかの瀬戸際になり、お兄ちゃんや父さん母さんに心配をかけてしまったけど、肝心の病気の原因は希望が丘病院の先生方でもわからなかったようだ。
目を覚まして意識が落ち着いてから事情を聞き、大学病院で治療を受けるかの選択をすることになった。病気を治すためなら、私は大学病院にでもどこへでも行くつもりだった。けど、それでも私は兄の言葉に従って、この希望が丘病院に入院し、今に至るのだ。
その間およそ九ヶ月。私は先生たちの献身的な治療のお陰で、何とか今はほとんど治った――少なくともそう言われている――ところまで回復したのだ。
生きているという事実に今はホッとするけど、受験が迫っている今、何ヶ月勉強から離れてしまったか考えたくもなかった。
三年になったようだけど、新しいクラスの顔ぶれは全く知らない。勿論、今のままではクラスの人たちに付いていけないと確信出来てしまっている。
私の勉強といったら、誠司くんに薦められた本を読むくらいだ。国語の能力は飛躍的に向上しただろうけど、その他の学力は見るも無残な状態だろう。
そんな中、お兄ちゃんに勉強を教えてもらえるのは、まさに渡りに船だった。
「全教科持ってきた」
あくまでクールを繕ってお兄ちゃんが言う。今の姿はむしろ三枚目だったけど、そこはあえて言わないでおく。
「重くなかった?」
「後悔するくらいには重かったぞ」
「う、ごめんなさい」
「気にするな。優先順位が高い奴から持って来れば良かったんだ」
言いつつ、お兄ちゃんはバッグから次々と教科書を取り出していく。私としては早速頭痛に見舞われるばかりだ。
そこで、あることを思い出した。
「あ、お兄ちゃん。勉強なら良いところがあるよ」
「良いところ?」
「そう。勉強するための部屋」
普段誰も使わないため普段は埃を被る宿命にあるけど、院内学級と言って、学校に行けない子供のために、学校のようなことを行うために用意された部屋だ。
私がその存在を知ったときは利用者はほとんどいなかったけど、じわじわとその数を増やしつつある。やっぱり、病院の外に出たことが無い子供は、健康に学校に通っている多くの人たちからは想像出来ないことだけど、学校に行くことを希望する。
「勉強室っていうまんまな名前だけど、ホワイトボードで色々教えられるようにもなっているはずだよ」
「俺も使えるのか?」
「うん、大丈夫。元々、大人の患者さんが子供の患者に教えるのに使うところだから」
それを聞くと、お兄ちゃんは感心した様子で頷いた。
「さすがだな。患者への配慮が行き届いている」
お兄ちゃんは、よし、と声を出して膝を叩くと、
「行く前にお茶をもう一杯」
私は呆れてものも言えないまま、突き出されたカップにお茶を注いであげた。
病室を出て、今日も並んで歩く。病院の窓から覗ける庭には、木々が目一杯太陽を浴びようとしている。芝は適当な長さで切り揃えられて、一面を美しく淡い緑で覆う。ところどころにある白いベンチには、老若男女を問わず入院している患者が座っている。時には外部の人の姿も見えるけど、みんなが自然体で話しているのが遠目からでも分かる。病院には平日も休日も関係ないけど、外部から訪れる人には無関係なわけが無い。休日にしか来ない人も大勢いて、土日はいつもとは違った賑わいを見せるのだった。
私が時々話す子供たちが、窓からつい眺めている私に気付いて手を振ってくれた。私も笑顔で手を振ってあげると、子供たちは喜んでくれたようだった。
窓を開けて、腕を乗せて庭を眺めていると、つい私も遊んでみたくなる。けど、私は先生から走ることを禁じられているから、うっかり走ってしまいそうなことは控えているのだ。
読書の時はたまに庭で読む。普段部屋で過ごしてばかりなので、たまの昼前の太陽の日差しに和んでしまうのが常だった。
「ここは病院なのに、みんな楽しそうだな」
私の後ろに立って、お兄ちゃんが呟く。一緒に歩いていた私の姿が見えなくなって心配になったのかもしれない。
「この病院の雰囲気って不思議だよね。みんな幸せに暮らしてる。家族みたいな繋がりを感じるんだ」
湿気が多い季節にそぐわない、爽やかな風が窓から入ってきた。お兄ちゃんは私と一緒に庭で遊んでいる人たちを見て微笑んでいる。勉強が当初の目的だったはずだけど、今ではすっかり忘れたようだ。
「薬漬けになって治すより、治すという希望を持って、自分の力で治す、か。夢見たいな話と思っていたが、出来るものだな」
「え、何?」
「こっちの話だ」
お兄ちゃんの呟きはおぼろげにしか聞こえなかった。さほど重要な話ではなかったようだから、気にしないでおく。
しばらく二人で見ていたけど、やがてお兄ちゃんが私の背中を軽く叩いて、
「んじゃ、そろそろ勉強でもしに行くか」
ようやく本来の目的に戻ることにしたようだ。
「そだね。そもそもそのために勉強室に向かっているんだし」
お兄ちゃんに従って再び歩き出す。病室の前を通ると、その多くから喧騒が聞こえてくる。病室では静かにするなんていう暗黙の了解が存在しない証拠だ。
「ここの病院、神経質な人にはかえって逆効果だろうな」
お兄ちゃんの呟き。横目で私を見ている。信じがたいことだけど、お兄ちゃんは冗談を言ったらしい。横目で相手を見るのは、リアクションの期待だということに気付いたのはつい最近のことだ。
「お兄ちゃん、冗談が何なのか勘違いしてるんじゃない?」
素直に感想を言ってあげると、
「あまりに辛いツッコミだ……」
愕然とした様子でうなだれる兄を見て、
「その姿の方がよっぽどギャグだと思うよ」
私が言うと、かなりへこんだようで、その後はしばらく無言で歩いた。
つまらない冗談の反応を一々するよりは良いと思って私も黙っていると、ある病室を通ったときにふと違和感を感じた。
「話し声が無い……」
それの正体に私が気付く前に、知らず口から零れていた。
「気にするな。きっと寝てるんだろう。見舞いに来ている人がいるかどうかは知らんが、寝てる人のいる中で騒がんだろう」
お兄ちゃんが珍しく強い断定口調で言う。私もそれ以上の追及はしないでおいた。
いつの間にかお兄ちゃんの顔が凛と引き締まり、口元がしっかり結ばれていたから。
そんな顔つきをしたお兄ちゃんには、有無を言わせない説得力がある。まるで、自分が言ったこと以外認めないという。それどころか、考えることも許さないというような。
でも、それがかえって私を真実に近づけた。いや、真実だと思うところに近づけた。
多分――
「きゃっ!」
私の思考を強制的にカットする感触がお尻にあった。
「もう、誠司くん!」
後ろに立っていたのは、案の定誠司くんだった。振り向かなくても判る。こんなことをするのは誠司くんしかいないのだから。
「へへー、ごちそうさまでした」
ご丁寧に、手を合わせてお辞儀までする誠司くんに、私はすっかり毒気を抜かれて誠司くんの前にしゃがんだ。
「もう、いつもやっちゃ駄目って言ってるでしょ?」
お仕置きだぞ、と言って、私は誠司くんを無理やり振り向かせ、片手で誠司くんの目を塞ぎ、空いているほうの手で誠司くんの体を引き寄せた。
こういった接触系が誠司くんが一番弱いと知っている。ちなみに胸のところには、誠司くんに気付かれないように勉強室で使うためのクッションを置いておいた。
思ったとおり、誠司くんに絶大の効果を発揮し、誠司くんは耳まで真っ赤にしている。
「真希……。それを同年代の男の前でするんじゃないぞ……」
横に立っていたお兄ちゃんが、呆れたように私に言った。
「何で?」
「何でもだ」
先程とは違った有無を言わせない口調に、私は首を縦に振った。
何となく釈然としない気持ちがあったけど、私たちはとりあえず勉強室に行くことになった。
三人揃うとさすがに賑やかなもので、病室から聞こえる喧騒なんて耳にも入らないくらいだった。
「さすがに病院の中は冷房設備が整っているな」
病院に来た時と同じ荷物を机の一つに置きながら、お兄ちゃんが一息ついた。元々体力がある方じゃないから、冷房が効いていても少し辛かったかもしれない。
「ねね、お姉ちゃんたち何するの?」
物々しい荷物に興味を引かれたのか、誠司くんは歳相応の顔で私たちに聞いてくる。
「学校ごっこだ。俺が先生、真希が生徒だぞ」
お兄ちゃんが腰に手を置き、穏やかに返す。
「学校?」
その単語を聞いたとたん、誠司くんの顔つきが変わった。
「僕もやりたい!」
「誠司くんも?」
学校なんてつまらないよ、と言いかけてやめた。誠司くんはまだ五歳だから、小学校に行く年齢じゃない。でも、同じ世代の子はみんな幼稚園に行っているはずなんだ。
「うん、誠司くんも一緒にやろ!」
誠司くんだってやっぱり学校とか行ってみたいんだ。それも、幼稚園に通っているみんなより先に学校を体験出来るっていうのはちょっと誇らしいんじゃないか。そう思うと、私は自然と誠司くんを誘っていた。
「良いよね、お兄ちゃん?」
お兄ちゃんなら良いと言うと確信はあったけど、念のため上目遣いをしておく。お兄ちゃんが一番弱い私の目線の角度は、長年の経験で知り尽くしている。
「もちろんだ。誠司がどれだけ出来るのか興味もあるしな」
お兄ちゃんは堂々と答えている。ということは、私の上目遣いなんか無くても最初からやるつもりだったらしい。
「その前に、だ。飯は良いのか?」
お兄ちゃんは勉強室の時計を仰いだ。もう短針は一番上を指そうとしている。
「あ」
間抜けな声を思わず漏らしてしまう。病室を出てから一時間くらい遊んでいた計算になる。それに気付くと、思わずふっと笑い、
「お勉強は午後からにしよっか?」
二人に問いかけた。
「そうだな。それからでも十分だろう」
お兄ちゃんはすんなり承諾した。けど、誠司くんはなにやら悩んでいる。そして、意を決したように頷くと、私に顔を向けた。
「お昼ご飯、ここで食べよ?」
「え? まあ、良いけど……。お兄ちゃんはどう?」
「俺も構わんぞ」
病室まで結構距離がある勉強部屋であえて食べる理由は気になったけど、許可はすぐに取れるだろうから、私たちはそれに従った。
荷物を置いて一旦自分の病室まで戻ると、既に食事は置いてあった。いくつもの病室を回らなきゃいけないんだから、いない人の分は置いていくのが当然だろう。
この病院では、食堂を図書ルームにするにあたって、調理室を作って患者の部屋まで運ぶという体勢を作ったのだ。食堂で食べたい人は、あらかじめ調理室に断りを入れてからと言う事になっている。そういう人やお見舞いに来た人のために、院長が病棟の外に食堂を一つ作ってしまったのだ。豪快な院長だと思う。
昼食を持っていく前に、ナースステーションに顔を出す。そっと覗き込み、看護士長がいないことを確認し、中に入った。
「あら、どうしたの真希ちゃん? 恋の悩みならいつでも受け付けるわよー?」
入った途端に中にいた人からの歓迎を受けた。話しかけてきた人は、看護師の北山さんだ。
「あ、いえ、それは全然問題ないです。まだ好きな人もいないので」
「そうよねー。真希ちゃんのお兄さん、カッコイイもんねー」
北山さんの言葉に、中にいた看護士達も一斉に頷く。どうやら、お兄ちゃんの人気はこんなところでも高いらしい。
「あ、そうだ。勉強室でご飯食べて良いですか?」
本来の用件を思い出し、聞くと、方々から承諾の声が聞こえてきた。予想済みのことだ。この病院では、許可を事前に取れば、大体のことは許される。
「じゃ、そういうことで失礼しますね」
「はーい。今日も誠司くんとさとおばあちゃんと遊んであげてねー」
「あはは、もちろんですよ」
笑って返すと、北山さんが肩を叩き、私の耳に顔を近づけた。
「今度お兄さん紹介してくれない?」
「あはは」
笑ってごまかした。
正直、身長不相応な体重がありそうな北山さんに、お兄ちゃんが振り向くとは思えなかった。ただでさえ多くの美人を袖にしてきた人なのだから。
私はお辞儀をして、早々にその場を後にした。誠司くんたちが待っているだろうから、早く行こう。
再び勉強室に行くと、誠司くんだけが待っていた。
「あれ、お兄ちゃんは?」
誠司くんは私が来たことには気付いていなかったようだった。
「まだ来てないよ。多分、今日は土曜だし、食堂も混んでいるんだよ、きっと」
と誠司くんが言った直後、
「すまん、遅れた。なかなか品が来なかったんでな。さすがに学食のように真空パックにするわけにはいかんのだろうが」
私が開け放しておいたドアからぬっと入って、すまなそうに言った。
「私も今来たばっかりだよ」
「そうか。待たせたな、誠司」
「ううん。大丈夫。僕の病室、ここから近いから。早く着き過ぎちゃったね」
誠司くんの言葉を聞きながら、私たちは誠司くんと対面する形に座った。
お兄ちゃんのとお昼を食べるのは久しぶりだ。誠司くんにいたっては、食事を一緒に摂るのは始めてのことだ。
「ね、お姉ちゃん」
誠司くんは、食事が始まって早々に私に話しかけてきた。
「どうしたの?
「こういうの、学校では給食って言うんだよね?」
「あ、そういえばこういうの、何か給食っぽいね」
複数の人――年齢が違う人も――が一緒に食事を取るという形式は、確かに給食に似ていた。
「あ、だから一緒に食べたかったの?」
「うん!」
誠司くんは大きく頷いた。有り余る嬉しさをぶつけてきた感じだ。
その年齢相応の無邪気さが可愛くて、つい微笑んでしまう。お兄ちゃんを見ると、目を閉じている。きっと喜んでいるのだろう。
とはいえ、この顔ぶれで給食というのはおかしいだろう。お兄ちゃんに私、それに誠司くんでは年齢の離れ方が微妙すぎる。けど、誠司くんが満足しているようなので、何も言わないことにした。六年生が一年生の教室で給食を食べるようなものだと思おう。
私もそんなに幼くはないけど。
そうしてみんなで食べていると、もうすぐ食器返却の時間だった。私とお兄ちゃんは話しながらも全部食べきったけれども、誠司くんは話に夢中になり過ぎて、ほとんど手をつけていなかった。
「もう、誠司くんたら。折角の給食なのに」
「えへへ、ごめんね、お姉ちゃん」
ばつが悪そうに、誠司くんが舌を出す。
「ま、良いじゃないか。それじゃ、食器片付けてからまた集合だ」
『おー!』
お兄ちゃんの言葉に、私と誠司くんは同じタイミングで手を挙げた。
それから三時――おばあちゃんに会いに行く時間――まで、お兄ちゃんから授業を受けた。
黒板を使った授業が出来るように、と思ったけど、誠司くんがいるのでそれは止めておいた。
お兄ちゃんの授業は、私でもわかるくらい丁寧だった。忘れていたことをあっという間に思い出していくのを感じた。これなら入院している間の分もカバー出来るかもしれない。
私の隣では、誠司くんが好奇の目で授業を受けていた。お兄ちゃんは誠司くんに国語は教える必要は無いと感じたようで、算数から入っていた。
うまひ棒を使ってものの数え方を教えているところは少し滑稽だったけど、誠司くんはところどころで感心したように頷いていた。
授業が終わると、誠司くんがお兄ちゃんに色々なことを聞いていた。学校を体験することは、誠司くんにとってそれほどに興奮することだったのか、と驚かされた。学校はあまり面白くないものと思っていたけど、通っていない人から見ればそれがどれほど贅沢な考えなのか思い知らされた。
「良かったねえ、みんな。良介くんも、真希ちゃんと誠司くんのためにありがとうね」
誠司くんが楽しそうに今日の授業の内容を話すのを聞き、おばあちゃんがお兄ちゃんの手をとってお礼を言った。
「いや、そんな大それたことしてませんので……」
珍しく、お兄ちゃんが戸惑い気味に言った。真正面からお礼を言われることに慣れていないらしい。
「そんなことないよ。自分のためにこんなにも良くしてくれる人がいるっていうだけでも嬉しいんよ」
おばあちゃんは、ゆっくりと喋るしところどころ間延びしているけど、その中にきっちりとした筋みたいなものがある。お兄ちゃんも言い返す言葉に詰まっている。
とはいえ、お兄ちゃんは、先週一度話しただけでおばあちゃんが気に入ったらしい。自分もおばあちゃんを喜ばせることが出来るなら、と輪の中に入っていた。
土曜だけの特別ゲストに、二人とも大いに喜んでくれる。大抵の話題はお兄ちゃんへの質問だ。わからないことや、お兄ちゃんがどんなことをしている人なのか、などなど。
そんな話で盛り上がっていると、いつの間にか和室にいた他の人たちも会話に参加してきて、いつの間にか大盛り上がりとなっている。
それでもお兄ちゃんは話し手だけじゃなく、聞き手に回ることも忘れない。輪に入ってきた人にもきっちり話しを聞くあたりはさすがだ。
「こんな人が一杯になってきたことだし、みなさんにお茶でも淹れなきゃいけないねえ」
「あ、お茶碗取って来るね」
「ありがとうね、真希ちゃん」
おばあちゃんの言葉を背中越しに聞いて、私は戸棚からお茶碗を取り出した。今は十人を越える輪になっているから、何回も往復が必要になる。茶碗を置いては戻りを繰り返していると、ふと片隅に車椅子が置いてあるのが目に入った。
「何に使うのかな?」
小声で自問してみる。だけど、そういえば病院で車椅子を使う人がいるなんて珍しいことじゃない。話の混ざりに来た人たちに中にも這って来る人もいたんだ。
それなら不自然じゃない。私はいそいそと茶碗を用意した。
私が再び座布団に座る頃には、おばあちゃんがもうお茶を急須に入れているところだった。
「ごめんね、遅れちゃって」
「良いんよ、仰山いるからねえ」
おばあちゃんは、私が並べた茶碗にお湯を八分目くらいまで満たし、それを急須に入れた。さすがに全部一度に入れるのは無理なので、三杯ずつにしたらしい。
急須は二つ用意されていたので、すぐに全員に渡るだけのお茶が出来上がった。それを配るのはお兄ちゃんも手伝ってくれた。
あっという間に部屋の人に質問攻めにされているお兄ちゃんを尻目におばあちゃんと話していると、
「あ、そうだ。真希ちゃんと誠司くんに渡そうと思ってたんよ」
おばあちゃんが、巾着袋からお手玉を取り出した。
「これ……。僕たちに?」
誠司くんは驚いたような表情をしている。
「そうよ。真希ちゃんも誠司くんも、お手玉が大好きみたいだからねえ。上手になるように、って丹精込めて縫ったんよ」
おばあちゃんは、そう言ってお手玉を私たちに握らせた。それぞれ五つずつ。
「おばあちゃん……」
礼を言うべきなのに、感激のあまり言葉が出て来ない。嬉しくて、少し目に涙が溜まった。お兄ちゃん以外の人からは、しばらくプレゼントなんてもらっていなかった。
誕生日とか記念日とか、そういう日に贈るものだと思っていたけど、心がこもっていればいつかなんて関係無いと、私は初めて気付かされた。
早速そのお手玉を使ってみると、何だかいつもと違う感触に戸惑ったけど、すぐに感触を掴むことが出来た。
早々と三つでも成功したから、いつものように四つに挑戦することにした。おばあちゃんは、いつもと変わらず微笑みながら私たちを見守っている。
誠司くんも一生懸命に四つに挑戦している。だけど、お手玉は一つ増えるだけでも難易度は格段に上がる。二つなら簡単に出来たけど、三つ一度に出来るようになるまで時間がかかった。三つから四つとなると尚更だろう。
特に、おばあちゃんが作ってくれたと思うと、早く良いところを見せないと、と息巻いて、余計な力が入ってしまうのだった。結局、的外れなところに飛んだり、間に合わないといったことが多くなる。
「あー、何で出来ないんだろう」
今日何十度目かの失敗をして、私はつい弱音を漏らした。気持ちだけが逸って、結果に結びつかない。それが何より歯がゆく感じられた。
その時、おばあちゃんが私の肩をぽんと叩いた。
「真希ちゃん、力抜いて良いんよ。ゆっくりやりゃ良いの。そんなときは、深呼吸して、またやり直せば良いんだから」
はっとしておばあちゃんを見ると、おばあちゃんはやっぱりやんわりとした微笑みを浮かべるだけだった。
でも、その言葉はすっと私の心に浸透した。すっと心の中に入っていくのがわかる。小説を読んでいたときに、共感できると思った言葉以上に強力だった。
大きく深呼吸した。それだけなのに、さっきまで感じていた焦りは嘘みたいに消えていった。やっぱりおばあちゃんは魔法使いだ。
「じゃあ……行きます」
呟いて、お手玉を一つ一つ宙に放る。放物線を描いて私の手に戻ってくるお手玉たち。三つ回し、タイミングを見計らって四つ目のお手玉を投げた。
ぽーん、ぽん、ぽん、ぽーん、と一定のタイミングでお手玉を放っていく。放物線の軌跡の中には、四つのお手玉があった。
「出来た……。出来ちゃった……」
驚きと共に、言葉が口をついて出た。手では休まずお手玉を回し続けている。私の意識と体が別れてしまったような感じがする。
私がそうやってぼうっとしていると、隣から拍手の音が聞こえた。
「おめでとう、真希ちゃん。やれば出来るじゃないの」
おばあちゃんは私のことをよく見てくれる。おばあちゃんの拍手を聞いて誠司くんも、
「おねえちゃん凄いや! でも先越されちゃったー」
少し複雑な表情をしながら、それでも祝福してくれる。
お兄ちゃんも何気に私を見て唇の端を上げていた。そんなことをされて初めて、嬉しさと恥ずかしさがこみ上げてきた。
だと言うのに、一緒にお茶を飲んでいた人たちもたちまち私の方を向いた。
「おめでとう、真希ちゃん」
「おめでとう」
「おめでとー!」
口々に言うのを聞きながら、何故か私の名前は和室にいる人中に知れ渡っていることに気付いた。
「あの、皆さん、何で私の名前知ってるんですか?」
いつもより沢山の人と話すのはとても楽しかった。日が傾くのが遅くなっているから、つい時間を忘れて話し込み、夕食の時間というアナウンスでようやく私たちは別れたのだった。
夕食を食べ終わると、もう面会の時間は終わる。お兄ちゃんは持ってきた荷物の中身を置き、これからは水曜日にも来ると言い残して帰っていった。
消灯までの時間は、図書ルームで以前から借りていた本を読んで過ごすのが私の日課だ。それに、先生が一日の終わりに病気の経過を見に来るのだ。それはさすがに私だけで、自分の病気が原因不明のものだということを思い知らされる。
コンコン。病室のドアに、乾いたノックの音。先生が来たんだろう。
「どうぞー」
呼びかけると、ドアが音を立てて開く。でも、そこにいたのは先生ではなく、誠司くんだった。
「あれ、どうしたの?」
「えへへ、会いたくなったから、来ちゃった」
はにかみながら誠司くんが言う。やはり歳相応の男の子だ。可愛いところもある。
手招きしてやると、誠司くんは嬉しそうに私のベッドに腰掛けた。
「お姉ちゃんはこれから電気が消えるまで何やってるの?」
「うーん。毎日読書くらいしかすることがないかな。誠司くんから面白い本をいっぱい教えてもらってるし」
「そう言ってもらえると嬉しいなー」
その言葉を証明するかのように、ベッドの縁で足をぶらぶらさせる。何か本でも読んであげると良いのかもしれないけど、誠司くん相手だとそれも気が引けた。
「誠司くんは何してるの? いつもは」
「僕も同じだよ。読書」
「そっかー、気が合うね、私たち」
あはは、とお互い笑い合っていると、ドアがノックも無く開いた。
「何だ。何か楽しそうだと思ったら、誠司も一緒か」
今度こそ先生だ。
「じゃあ誠司。ちょっとそこどいてくれるか? これから真希の往診なんだ」
「あ、うん。わかった」
素直に先生に従う誠司くん。今まで誠司くんが座っていたところに先生が座った。
そしていつも通り診察を行うかと思ったら、何故か咳払いをした。
「あー、その、真希。往診始めるが、良いか?」
「何ですか、急に改まって?」
「いや、ほら、恥ずかしくないか一応聞く必要があるかと思ったんだが」
言って、誠司くんを見る先生の素振りで、ようやく私も気付く。
「そんな、誠司くんはまだまだ子供だから恥ずかしくないですよ」
これが小学校高学年くらいに差し掛かると恥ずかしくもなるけど、誠司くんはまだ六歳にもならないのだ。精神年齢が高いことは知っているけど、恥ずかしくはない。
「じゃ、いつもの始めるか。まず服を上げて」
「はい」
パジャマをめくり、ブラジャーのホックを外す。そこに先生が聴診器を当て、いつもの診察が始まる。
診察と言っても、風邪を引いて小児科などの病院に行った時と、やることはほとんど変わらない。毎回五分もかからない。
「よし、今日も大丈夫だろ。もう着ても良いぞ」
「あ、はい」
先生のその声を合図に、私は服を元通り整えた。
「で、痛いところとかあるか? 気持ち悪くなったり、気だるい感じとか。何か変わったことはあるか?」
「うーん、今日も無いかな。いつも通り元気です」
笑顔で言うと、先生は安心したように頷いた。その後も数分の問診が続き、それが終わると、
「よし。じゃあ今日はこのくらいで切り上げるか」
立ち上がり、誠司くんの頭を撫でた。
何故か誠司くんは顔を真っ赤にしている。私が目を向けると、すっと俯いた。
それを見た先生は、面白いおもちゃを見つけたと言わんばかりの表情をして誠司くんのおでこを指で弾く。
「なーにをいっちょまえに照れてんだ、お前は」
「ち、ちが、照れてなんかないよ!」
「うろたえるあたり、こりゃマジだな」
「ち、違うって言ってるでしょ?」
私の目から見ても、明らかに照れている。
「誠司くんたら可愛い」
やはり精神年齢が高いとおませさんなのか、すっかり顔が赤い誠司くんに私は言った。
「お姉ちゃんまで……」
すっかりふてくされた誠司くんだった。
「うふふ、ごめんね。だって可愛かったんだもん」
「だーかーらー」
両手を振り上げて怒る誠司くんに、私と先生は一緒になって笑った。
その時だった。
「ごふっ」
まるで他人事のような誠司くんの声だった。その口から、見たことの無いほどの勢いで血が噴き出した。鮮やかな赤だ、と認出来るくらい私にはゆっくりと見えた。地面にたちまち赤い絨毯が敷かれる。
続いて誠司くんが次第に前のめりになった。そのまま膝が曲がると、次に膝が床につき、最終的に誠司くんが床にうつ伏せる格好になった。
何が起こったのか、私にはわからない。私の脳が、誠司くんが吐血して倒れたという現象をいやに冷静に告げる。でも、あんなにゆっくり倒れたのなら心配ないんじゃないか。そう信じたいのに、子供の誠司くんにあんなビデオのスローモーションのようにゆっくりと倒れるだけの筋力があるわけがない、とまたしても私の冷静な意識が残酷な審判を下した。
私の中には、現実を認識しようとしない私と、現実を淡々とした声で呟く私がいた。優勢なのは前者だ。私は動くことを拒んでいる。頬を膨らまして、ぷいと拗ねる誠司くんの映像を映し出している。動いたら負けだ。しゃがんで声を出したら敗北だ。認めたくないものを認めることになってしまう。
「誠司!」
それなのに、私の視界の端で、先生が俊敏な動きで誠司くんを抱える。何でそんなことをするの、先生? そんなことしたら、現実になっちゃうよ……。
「せ、誠司くん? だ、駄目だよ、そんな、ね、目、目を、覚ま、して? ね、覚まして?」
「何やってる! 早く誠司を処置室に運ぶぞ。真希、手伝え!」
言いつつ、私のベッドのシーツを剥ぎ取り、誠司くんを上に載せる。先生が手際良く動いている一方で、私は……動けなかった。さっきまで話していた誠司くんが血を出して倒れているのが信じられなくて、それを認めたくなくて、でもそれは悲しいほどに現実感を伴っていて。
ああ、現実なんだ、やっぱり。鈍い思考回路がようやく繋がる。認めたくなかった現実が、私を侵食するかのごとく脳内で迸る。
ようやく認識した現実を前に、私はただ立ち尽くすことしか出来なかった。
「真希!」
既にシーツを掴んでいる先生は、私に激を飛ばした。
「お前が前を行け。走らせるわけにはいかないからな。歩調はお前に合わせる。だから、急げ!」
私は最早何も考えることは出来なかった。それでも操り人形のように体が動く。先生の指示通りにシーツを掴む。
「立つぞ。一、二、三、はい!」
はい、で立ち上がる。
「行くぞ!」
その後、処置室に着くまで先生の指示に従って方向を転換した。血を流す誠司くんの重みがシーツを通して伝わる。いつもは軽々持ち上げていたはずの誠司くんの体が、今だけ妙に重い。これが命の重さなんだ、と私は頭のどこかで感じていた。
先生の慌て方から、誠司くんが軽い症状だということはありえないだろう。
信じていたいのは、最早甘い、淡い、願望でしかなかったのだ。
現実という言葉が、圧倒的な存在感を持って私の前に姿を現した。それはあまりに強大な相手で、相手にするには絶望的だった。
第四章以降は現在執筆中です。書き上げ次第アップ致しますので、よろしければお付き合い下さい。
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