『月と黒兎』神矢弦彦
散歩が日課であった。いつもは晩に歩くのだがその日は朝も早く目が覚めたので、天気も良いことだし、そのまま散歩をしようと思ったのである。外に出て太陽の悪戯に手をうえにかざせば、季節のもう夏であることが知れた。細めていた目を段々に開けると、濃い緑の葉を纏う樹々の連なる下にさらさら影は流れている。その流れにさそわれたのか風は脇の下を過ぎ、その後にはひんやりした感覚が残った。遠くに鞄を背負う子二人の行くのが見え、学校か、と思った。一人は五月蠅げな髪を整えもしないでいるのに、顔はなんとも涼しげで、目の辺りなどは少年と云うよりも二十歳過ぎのおんな、それも上品でない着崩した服のおんなのそれであり、うなるような溜息をひとつ、つかない訳にはいかなかった。もうひとりのほうも背のすらりとのび、半ズボンから見える脚は日を照り返して白に輝いており、その輝きは口もとの笑みにも存在した。二人は何かを語らい合っていたがこちらにはその声の届くことは無い。しかし、そんなものは聞こえる必要などなく、ただ二体の少年人形らがその顔に笑みを絶やす事をしなければ、満足であった。
彼らの行くのを見送った後に歩き始めることにした。彼らとは反対の方を行く。向かうは土手である。他の季節の他の時間ではそこへ行く気はしなかったが今日なら行って構わんだろうと思ったのだ。途中人には会わずに着いた。川べりに人は中々来ないらしく草の多くはたむろして茂り、土肌の見える処は少なくて、あちらにひとつこちらにふたつとあるばかり、少し歩くと階段を見つけ、そこから降りると鬱々とした青い草の間に真ん中を黄色に飾った白く小さな花を見たが、名前などわからなかった。多分名前などないのだろうと思った。川は先日の雨で稍濁り、流れをはやめ轟と音をさせていたが、夏の光をいつものように身に受けて水肌を輝かせることを忘れたわけではなかった。よくよく見れば草には処々に玉露の嘆きが見える。先刻の花にもついていたのだろうかと返り見たが、あの花がどれであったかなど疾うに忘れてしまった。近くにおる花一本には、五枚ある花びらの一枚に一滴のみ、ほんの小さな玉が乗っていた。摘みとろうかと右手をさしのべたがふと、この花を手に取ったとて何になると云うのかなどと、柄にもなく考えたので引っこめた。風の所為か、草がざわざわした。
それから川沿いに歩いていると芝生が見え、近くにコンクリイトの細長いブロックを見つけたので、触ると微かに湿っていたが腰を落ち着けると、頭にぼんやり色々浮かんできた。ひとつは友人の事であった。ひとつは金の事であった。ひとつは最近読んだ本で、ひとつは昨日の朝見た夢だった。それらは堂々巡りして消える事なく頭の中を回っていた。
遠くの建物がひとつとり壊されるのが見えた。えぐられて半分が無かったが、その残りは、面蔭は無くしているけれど強さを失う事なく立っているのが、何ともさびしかった。あんなふうにじわじわ壊していくぐらいなら一気に壊せばいい。六階あたりから少し崩れて音を響かせて落ちたような気がした。また違う建物は幾条もの黒い筋が肌を流れていた。違う建物はガラスに陽のあたるのを避けるみたいに暗かった。どの建物も湿っていて、表面が鋭くてらてら光っているのだった。何だいあんなものと思いながらもじっと見つめてしまっていると、しなびた大根みたいな人間に見えてくるのが、不思議な気もしなくはないが、可笑しかった。可笑しいと云えばどだい自分の今までを振り返り見ればそれも十分可笑しいものだ。日の出ではない日の入りの夕ぐれ空のような人生などと云えば格好はつくがなんて事はない、しなびた人生であるだけだ。それが可笑しいとはどう云う事だなどと聞かれても答えようがない、ただ可笑しいのである。だがそれを顔に出す気は無かった。傍目から見たならあの男は何てむっつりとして黙っているのだと思われるに違いない。などと考えながらの視線の先には黒っぽい建物の相変わらず並んでいるのがあるだけだ。
幾時がたったのだろう。長くぼうとしてしまった。早朝の空気から抜け出た街はがやがやし始めた。遠くで車が走るのも聞こえた。
さて帰るかなどと思って腰をあげたとき、近くの茂みの高く育った草が揺れ、がさりと音がした。風など吹いていないがと思っているとまたがさり、一體なんだと思えばがさがさっと音がする。興味が出て来たその時、一匹の黒兎がひょっこり顔を出して私を見つめた。
腰を宙にうかせたまま、のばすこともしないで、その兎をじっと見た。果たして逃げるかと思いながら、その体勢のまま近づいていくと、黒兎はこちらへやってきて足元に寄り、鼻をひくひく動かして、革靴の臭をかいだ。何と警戒心の無い、とこちらのほうが驚いたが、まずまずつかまえてみることにした。まだ靴をくんくんやっていたが、両手があと三センチと云うところでぱっと逃げ出し、いきおいをつけすぎた私はすてんと転んでしまった。
そのまま動かないでいるとうさぎがまた近づいて来る気配がした。うなだれたままの頭に鼻を近づけまた臭いを嗅いでいる。靴と頭が一緒なのかと思うと苦い薬を飲んだ後の固い笑いがこみあげてくる。笑いで起きた震えに動揺したか、黒兎はぴくと體を痙攣させるのが感じられた。起きあがると先程のようにではなく、ある硝子ものに触れる心地で両手をのばした。今度は兎も逃げなかった。やわらかな毛ではあったが、汚れており本来あるはづだろう輝きは失せ、黒は沈んでいた。私はそのまま抱え込むとシャツの汚れるのなど気にしないで家へ戻ることにした。
兎は水が嫌いと云うのをどこかで聞いたことがあったので、そのまま水をかけることはためらわれ、内に帰った私はまず使われていないタオルを引っぱりだして水を含ませ硬く絞り、ふいてやることにした。ふくとタオルはどんどん汚れていき、こんな汚れがどこに蓄えられていたのか不思議に思った。何度目かでタオルはそれ以上汚れなくなって、そうして兎を改めて見ると黒はかがやきを取りもどしていた。誰かに飼われていたのはすぐにわかった。逃げてきたのか、捨てられたのか、判じかねたがそんなことは思いの外へやってしまい、私はこの兎を飼おうと決めた。飼うと決めたら、後は簡単で、とりあえずシャツを脱ぎ、洗濯かごに入れ、黒兎を抱えてその顔を見た。見れば見る程、愛嬌の無い顔だと思った。しかし、それが良いとも思った。
名前は付けないことにした。良い名前が思い浮かばなかったからでも、前の飼い主がつけた名前があるはづと思ったからでもない。つけようと思った名前があったが、いざとなると躊躇いが生まれ、やめた。
彼が内にきて一週間ぐらいがたち、最初は隅でちぢこまっていたのが、部屋のあちこちに跳ね回るようになった。昨日は和室にある脚の低い卓のうえの青インキをこぼされてえらい目にあった。しかし、自分でこぼした青インキにおどろき、卓にのったままうごかないでいる彼を見たら怒る気も失せた。
さらに一週間がすぎた。帰宅をすると必ず玄関の前で待っているようになった。結局、元来やんちゃでないのか青インキの時以来何かをやらかしたりいたづらをしたりと云ったことはなかった。彼をここに連れて来てから籠に入れるなどしなかったが、外に出たりはせず、動き回るのは内の中でだけだった。一度彼と出会った土手へ連れていくと、ぴくりとも動かないでいたので、特に家から出したりはしていない。日課の散歩は休みがちになった。
彼の黒は見るほどにうっとりさせられた。かがやいてはいるが闇の黒だった。電気をつけない部屋の卓上にある青磁の花びん、それを思わせる黒だった。毎日くしですいてやり気持ちよさそうに腹のうえでいるのを見ると、少し前の或ることが思い出されて寂しさを感じた。すき終えて、彼の背中をなでながら思わず、
「お前はここから去らないでくれ」
と云っていた。はっとして彼を見ると目を閉じてすうすうと寝息をたてており、耳を片方ぴくりと動かしていた。苦笑いをせずにはおれず、眠気が私にもきて気づいたらねていた。
しばらくそのような生活を送っていた時の或る日、夜中の散歩を久しぶりにした。彼をおいて私は家を出た。幾日ぶりだろう、すっかりなまけてしまったものだと感じながら、外灯の点々とともる小道を歩くと、夜の悲しみがきこえてくる。涼しさはかおり、遠くでは街の明かりが微かに空を照らす。
暗さは私に安堵をくれ、外灯の明るさは一縷の望みを感じさせる。まだ傷は癒えていなかったのか。私は思いを捨てることが出来ないでいるのだろうか。
やがて、道は川と交わった。川と云ってもコンクリイトに底と側をおおわれた水の道である。水中には藻が茂り、水にゆくりと流れながらも、そこに留まっていた。川と呼ぶにはあまりに静かだとも思われた。渡された橋も静かに灯に照らされていた。その真ん中に立ち、しばらくはぼうとしていることにした。
足音がする。近づいてくる。誰かが来る。しかし、そのほうに目を向ける気にならなかった。意識を唯、川の面に向ける。処々外灯の明かりが反射している。何かがはねた気もしたが、気の所為かもしれない。
誰かが後ろを通る気配がした。通り過ぎるだろうと思っていたら、真後ろで足音が止んだ。私は振り返らなかった。
「そのまま、水面を見つめていて」
途端私の心は揺れた。舌が渇いた。頬に汗の一筋流れるのを感じた。街の喧騒は聞こえなくなった。瞬間の静寂の中で私の心だけが揺れていた。私はああ、と一言答えるだけだった。
「後ろを振り向かずに話を聴いてくれないかな。時間は無いんだ、実際。これが最後だよ、きっと。短い話なんだ、一言、云いにきただけ。
僕は君にとっての月になれただろうか」
長い沈黙か知れなかった。若しくはほんの二三秒にすぎなかったのでは無いだろうか。私はまた一度、ああと答えた。息がもれただけのようなかすれた声にしかならなかった。
やがて足音が聞こえた。遠ざかっていって消えた。全く聞こえなくなってはじめて振り返った。風があるきりだった。
私は何時の間にか家の前に立っていた。帰る途中の記憶なぞなかった。心の揺れは幾分かおさまっていた。その分、悲しみがずっと奥から溜まってきているのが知れた。何だ、前からこんなに悲しみを持っていたのかと、胸を押さえた。どことなく熱さがある。
内の中へ入ったが、彼の迎えが無い。すぐ脇の部屋を見ると、外の明かりが窓から中へ入って来ており、彼はその光をじっとあびていた。そしてじっと外を見ていた。私は部屋を明るくせずに、彼の方へ寄っていった。何が見えるんだい。私は彼に聞いたが、彼は少し上を向けていた顔を動かさなかった。私は彼の横に座って同じように仰ぎ見た。月があった。
こんな円く月の照っていたのを私は初めて知った。気付いていなかった。私の心の揺れも悲しみもどこかへ消えていた。
私も彼もしばらく月を眺めて動かずにいた。彼は月になりたいのだろうか。ならば彼は、私だ。月は彼を見守り続けようと思っているのだろうか。ならば月も、私だ。
宵を私と彼は月の魂に身をゆだねて過ごした。
朝起きると、彼の気配は無かった。内じゅうどこにも姿は見えなかった。
それから私は、夜の散歩をぱったりやめ、朝の時々にするだけになった。
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