『大都会』果たされぬ口約束
もくじ
第一章 アポカリプス@
第二章 アポカリプスA
第三章 アポカリプスB
第四章 アポカリプスC
第五章 アポカリプスD
第一章「アポカリプス@」
私はクリスマスの晩にモスチキンを片手に持っていた。その手はかすかに震えていた。私はモスチキンから目を離さずに、弟に話し掛けた。
『このモスチキンを食べていると、COOPのフライドチキンが一個いくらで売っているか見に行くのが怖くなるな』
弟はすかさず答えた。
『それは言わない約束だろ? 今兄さんがやるべきことはたった一つ。今は目の前のモスチキンに集中しろよ』
このモスチキンは私が同じ専攻の学生に協力して購入することを決めて入手してきたものだった。モスチキンを食べたことのない弟は早くも興奮気味だ。私はそんな弟を横目に見ながら、なぜ私がモスチキンを買ってしまったのか考えていた。だが、モスチキン(スパイスが効いている方)を嬉しそうに食べる弟の姿を間近に見ていると、そんなこと些細な問題であるように思えてくる。
『兄さん、俺、俺、モスチキンを食べて生まれてきた意味を見出せたよ』
さすがにここまで言われると私もモスチキンを食べる気がしてくる。私はモスチキンを食べた。ころもに比べ中の鶏肉は案外さばさばしていて、弟の言うほど感動はしなかった。モスチキンを食べた私を見て、弟は言った。
『な、プライスレスだろ?』
私は答えた。
『いや、210円だよ』
私は食後家族が繰り広げるテレビのチャンネル争いに加わらず、自室にこもった。私はいずれ訪れる終末に向けての予行練習が必要だった。しかし、話はいっこうに進まなかった。私は自室から出て、母親の元に向かった。私は居間の机で縫い物をしている母に言った。
『今夜のカレー、あれ「カレーの王子様」だったんじゃないですか?』
母は私に微笑みかけた。
『よくわかったね。そのとおりよ。で、それがどうかしたの? 味についての文句は私を倒してからにしなさいよ』
私は机をたたき言った。
『「カレーの王子様」なんて、私はもう二十一ですよ。いつまで私を子ども扱いすれば気が済むのですか?』
母は言った。
『あなたがそこに立っているせいでテレビが見えないのよ。それに今あなたが怒っているのはカレーのことだけじゃないんじゃなくて?』
テレビなんて見てもいないくせに。現に今テレビはザーッと砂の嵐が放送されているチャンネルがつけられている。そのチャンネルを家族そろって見ているのだから呆れる。何より母親に自分の心が見透かされていることに私は腹が立った。そして、行き場を失った視線はもう入れるものがなくなったモスチキンの箱ばかりを見ていた。
以上が我が家の日常。平和に保たれた我が家の日々。だが、平和な日々というものはガラスのように繊細でいとも簡単に崩れ去ってしまうものだ。この一文をどこかで聞いたことがあると思う人へ、私の文章がオリジナルで誰かが真似したんです。
ある朝のことだった。大学は正月休みだが、私は我が家の規則で毎朝八時に起こされることになっていた。しかし、今朝は九時半前に自然に起きた。普段起こしてくれるはずの母が現れなかった。居間に行くとそこにもやはり母の姿はなく、朝食を家族で食べているテーブルには弟が座っているだけだった。
『母さんはいないのか?』
『母さんなら家を出て行ったよ。愛人と一緒になる道を選んだのさ』
私は驚いた。話の進行のあまりの速さに。
『……!? お前はなぜそのことを知っている?』
『時間の問題だったのさ。兄さんは自室にこもりがちだったから母さんの変化に気づかなかっただろうけど、母さんは最近では時間があれば悩んでいたよ。そして、追い詰められていた。二十歳で兄さんを産んでから二十年ちょいの間の変化のない日常に意味を見出せなくなっていたんだ。僕もただ傍観者でいたわけじゃない。何もかも捨てて家を出て行くと決めた母に向かって叫んだんだ』
『何て?』
『あなたが死んでも代わりはいるもの、と』
いや少しは引き留めろよ。だが、これ以上弟の戯言に付き合っている暇はない。あっちを見てみろ、母を失った父が居間のソファーで頭を抱え、体を小刻みに震わせている。耳を澄ますと父は小声で何かをつぶやいている。
『殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す……』
『お父さん落ち着いてー』
『何を言う。私は驚くほど冷静だぞ』
『いや冷静に殺すとか言っていたらなおさらまずいと思いますよ』
父はうなだれた。
『私は妻を心から愛していたのに、どうして、一体どうしてこんなことになったしまったのか』
弟は言う。
『その愛にも終わりが訪れようとしているのですね』
弟は父を慰める気持ちなどこれっぽっちもないようだ。私たちは腹が減っているので、昨日の残りの「カレーの王子様」を温め朝食とすることにした。煮詰まっていい味出していた。この日、私は「カレーの王子様」も侮れない事を知った。「カレーの王子様」をよそっていた私に父は言った。
『母さんが戻ってくるかもしれないから、母さんの分の「カレーの王子様」を残しておいてくれ』
『ええ、わかりました』
私は残さず食べた。
母の顔はもう見れないのだろうか。私は急に限定感から母に会いたくなった。昔からほしくもないものでも、それが限定品や高価な物ならあれもこれもほしがった。あれほどありふれていた母の顔も、見れなくなると恋しくなった。失ってはじめて気づくことの代表的な例を知った。弟は平気そうだった。その顔に薄っすらと涙の伝った跡でもあれば可愛げがあるのだが。私は弟に向けて言った。
『そろそろママのおっぱいが恋しくなってきたんじゃないのか?』
『クラスの女の子のおっぱいを吸って間に合わせているよ。兄さんこそそこらへんどうなのよ?』
『私は飢えてるね。身近におっぱいがない人生なんて考えられないよ』
私は明日にでも小岩井農場に行こうかと思った。あそこは乳搾りたい放題だもんな、なんて淡い幻想を抱いたりしていた。
『父さんやつれたな』
母が家を空けてから一週間が経った。気づけば2006年になっていた。あけおめ。父は食事も喉を通らない状態が続いていて、今餅を与えたら詰まらせてしまいそうで怖い。
『傷つき倒れていく父さんもどこか趣があるな』
と弟はどこかこの現状を楽しんでいるところがある。どういう人生を歩んでくればそこまで前向きに物事を受け止められるようになるのだろうか?
『か、母さん! 母さんの声がしなかったか?』
父は立ち上がる。私はそんな父を引きとめなだめる。
『違いますよ、父さん。今のは小鳥がさえずっただけですよ。それに、母さんはそこまできれいな声はしていませんよ。二十年連れ添った仲なんだからそろそろそれに気づいてもいい年なんじゃないですか?』
弟は口をはさむ。
『兄さんもさらりと厳しいこと言うじゃん』
『私はただ直視すべき現実をのたまったにすぎないのさ』
『ううっ』
父は再びうなだれる。一家の大黒柱がここまで涙もろいとは。私は言う。
『泣かないでくださいよ父さん、泣いていたら涙で明日が見えないじゃないですか』
弟はここでまたも口をはさむ。
『兄さん、早くモスチキンの箱捨てなよ』
いつしか父は立ち直った。
『ふふっ、今日はお前らに教えられたよ。父さんは仕事に行くよ。迷惑かけたな』
仕事行ってなかったのかよ、行けよ。それにしても男女の愛って儚いね。年末に恭介氏とも話したことだけど、愛を獲得した奴が一番だと思うよ。私も誰かの無償の愛がほしいものだ。
夕食の準備は弟が励んでいる。見上げた奴だ。私は弟に尋ねる。
『何を煮込んでいるんだい?』
『カレーの王子様』
『またカレーかよ』
『バーモントカレーの方がよかった?』
『そういう問題だと本当に思うかい?』
『だって、だって俺が作れる料理っつったらカレー、ビーフシチュー、ハッシュドビーフぐらいだよ』
どれも似通っているのが痛々しい。
『だからってまたカレーっちゅーのはないだろ。それになんだこの浮いている葉っぱみたいなのは?』
『そこらに生えている雑草を入れてみました』
『お前何その冒険心? 餓鬼のおままごとには付き合いきれんわ』
『はあ!? 兄さんこそ早くモスチキンの箱捨てろよ』
私と弟は睨み合った。そこに父が仲裁に入った。
『まあまあ二人ともやめないか。別にそこらに生えているものが入っていてもいいじゃないか、体から生えているものが入っているよりはマシだろ?』
『父さん、その妥協の仕方はどうかと思うよ』
『それに、体から生えているものも入っ……いや、なんでもない、なんでもないんだ』
私は味などというどうでもいい概念を無視して夢中で食べた。
『やはり、どうにかして母さんを連れ戻さないか?』
弟は私に持ちかけた。当事者意識ゼロの私はけだるく答えた。
『えーよ』
『まず母さんの実家に何か知っていないか聞いてみよう』
弟は受話器を手に取った。トゥルルルルルルル……トゥルルルルルルル……、どうやら繋がったようだ。
『もしもし、あなたの可愛い孫ですよ。……、そうそう、よくできた方の孫ね。……、……、……、だから兄の方じゃないって言ってるじゃん。……、……、おじいちゃんがガタルカナル島で活躍した話はまた今度時間のある時にしてくれないかな? 本題なんだけど……、お母さんが行方不明なんだ……、何か知っている? ……、……、あっ、切りやがった』
弟は受話器を置いた。私は言う。
『あーあ、お前がよくできた方の孫だなんてハイレベルなギャグだか本気で言ってるのかよくわからないこと言うから』
祖父は何か事情を知っているようだった。だが、私たちには教えてくれない。いつからか私と祖父の間には越えられない壁ができてしまっていたのだろうか? その辺は結構気になるところだ。
『で、この状況をどうやって打破するよ、え? 教えてみ?』
と私は弟に言った。それに弟は答えた。
『まあ、待てよ。今受験生らしくチャート式で考えているのだから。
意味ありげな老父
↓
あくまで黙秘された
↓
繊細な僕のすべきこと
↓
血沸き肉踊る拷問
↓
今日の君は一段と素敵だね
よし決まった。早速祖父の家へ向かおう』
『何しに行くつもりだ? 低温蝋燭なんて持って』
『決まっているじゃないか、じかに行って話してくれるようお願いするのさ』
とても話し合いにいくような顔つきには見えない。弟が受験勉強のストレス解消に祖父母の爪を剥いだりしないか心配だ。弟はそんな私の心配事を悟ったのか優しい口調で言った。
『安心しなよ。爪と指の間に針を刺す程度だからさ』
『まずいだろ』
弟は聞こえていないふりをした。
第二章「アポカリプスA」
バスを乗り継ぐ事六時間、やっと祖父母の家がある青葉町に着いた。随分と奥地だ。また同じ道を引き返せるか不安だ。だが私たちには後ろを振り返っている時間などないんだ!
『何ちょっち良いこと心の中で言ってるんだよ』
弟は私の心にまで介入してくる。読めるのか?
祖父母の家に着いたがもぬけのからだった。
『ちっ、勘のいい奴らだ、俺たちの殺気に気づいて逃げたか』
俺たち? 私には殺気はなかった。弟は何を考えて祖父母の家に来たのだろうか? とにかく、わざわざ来たのだから、家の壁にスプレーで伝言を書いてみた。それが便所の落書きみたいになってしまい大変申し訳ないことをした。FUCKと書いたあたりから方向性が怪しくなっていた。まあ、それはいいとして次の一手をどうするかだ。弟は言う。
『俺、独自の情報網で探してみるよ』
『独自の情報網とは?』
『兄さん、知らない方が良いこともあるということだよ』
答えになっていない。しかし、独自の情報網とやらの機能は素晴らしく二分程で祖父母の居場所はわかった。仙台市内のとあるホテルだ。辺りはすっかり夜中になり、祖父母に会いに行くのは明日で今日はここに一泊だと思った。バスもないし、こんな奥地にタクシーが走っているとも思えない。だが弟は言う。
『兄さん、ちょっと待ってて。今友達に車で迎えに来させるから』
『こんな夜中にこんな奥地まで迎えに来させるのか?』
『だから友達なんだよ』
どうやら弟にとって友達とは使い勝手の良い人間のことを指すのだろう。弟の友達なら高校生なのでは? と一瞬思ったが、あまり深く考えすぎないほうが良いと思った。もちろん何事も深く考えることは大切ではあるが。二時間後、車で現れた少年は町田と名乗った。弟は町田に言った。
『悪いな、よく来てくれた』
『いや、たっくん(弟のあだ名)のためならいつでもどこでも駆けつけるよ』
とは言うものの顔は引きつっていた。私は町田君に何か気の毒なことをした気がした。だが、三秒後物事には犠牲はつきものと思えた自分がいた。仙台市内に着くまでどんなに急いでも四時間以上かかるので、私は寝ることにした。
次に目が覚めたのは三時間後の午前二時二十分だった。いつの間にか町田君はいなくなっており、弟が運転していた。私は尋ねた。
『町田君は?』
『おうちに帰ったよ。だってもうよい子はおうちに帰る時間じゃん』
車を置いて家に帰るわけないだろう。どこに行ってしまった?
『でも兄さん、町田がいない方が都合が良いだろう?』
『まあな』
実を言うとどう都合が良いのかわからなかったが、勢いで返事をしてしまった。私は若さというものの恐ろしさを知る。
車は市内に入った。祖父母のいるホテルまではあと十分ほどで着く。
『おい親愛なる弟よ、わかっているな?』
『ああわかっている、血で血を洗う戦いになるな』
『いや、それが何もわかっていないと言うのだよ、私が言いたいことはな、いいか、親愛なる弟よ、祖父母に手荒な真似をするなと言うことなのだよ』
『ははは、当たり前のことじゃないか兄さん、いままで僕が暴力に打って出たことが一度だってありますか?』
証拠を残したことが一度だってないだけだ。
ホテルに着いた。弟はホテルのフロント係に金を握らせて祖父母の泊まっている部屋を聞き出した。
『お客さん、騒ぎごとはやめてくださいよ』
『なあに、すぐ済むさ』
弟の顔は幸せそうだ。私と弟は祖父母のいる308号室に向かった。308号室に着くと、弟はどこからかマスターキーを取り出し、部屋を開けた。電気をつけると、寝ていた祖父母が眩しそうに起き上がり、こちらを見て驚いた。
そして、そこからの弟の手際の良さに手慣れたものを感じた。結論から言うと、祖父母たちは何も知らなかった。電話で母が行方不明というのを知らされて驚いて受話器を落としてしまい電話が切れ、その後電話が繋がらないから居ても立ってもいられずに市内に出てきただけのことだった。だからこの夜は弟が大変失礼なことをしてしまったと兄として謝りたい。弟は祖父母に非人道的な行いをして母の居場所を聞き出そうとした。しまいに気絶してしまった祖父母を見ても弟は、
『これが本当の優しさってもんだろう』
などと言っていた。
第三章「アポカリプスB」
こうして母親の捜索は振り出しに戻った形になった。家に帰ると父は買ってきた花の花びらを一枚一枚ちぎっては、
『好き、嫌い、好き、嫌い、好き……』
と特に意味のない言動をとっていた。間違いなく末期である。
さらに三日が過ぎた。年末年始の郵便配達のバイトも終わり、再び大学生活が始まろうとしていた。弟も高校に自習しに行くために起きてきた。しかし、父だけは出勤時間だというのに机にうずくまっていた。昨日は出勤できたのに。私は父に言った。
『お父さん、会社に遅れますよ』
父は無反応だ。
『お父さん……、聞こえてますか?』
父は鈍い動作で私を見て言った。
『昨日、私は肩を叩かれたんだ』
『肩を叩かれたというと、もしかして……』
『その肩を叩いている手が冷たくて、父さんどうにかなってしまいそうだった。その手はただ単に冷たかったんじゃない。どうしようもなく冷たかったんだ。でもその冷たい理由について誰も答えてくれないんだ。だから不安で不安で仕方ないんだ。なあお前たち、答えてくれないだろうか? なあ、なあ……』
私は父の質問に答えることなく父にさらなる質問をぶつけた。
『……。父さんが働かなかったら、我が家はどうなってしまうのです? 一家には働き蜂が必要でしょう? 電池が切れるまで動き続けてくださいよ』
父は答えた。
『私はこれ以上生きていけない。自殺する。自殺する以外にあの冷たい手から逃れる方法はない。私が死ねば、私の加入する生命保険からお前らが暮らしていけるのに十分な額が受け取れるはずだ』
ここで無関心を装っていた弟が話に加わった。
『父さん待ってください、ここで一家の次男坊として言わせていただきますよ。まず生命保険については、商法680条「保険者の法定免責事由」が優先されてしまう保険金目当ての自殺と認定されると、自殺の免責期間後でも保険金が支払われなくなりますから気をつけてください。あと、富士山の青木ヶ原樹海などで自殺されると、父さんは行方不明者となり、生命保険を受け取るのに必要な死体検案書を発行できなくなります。それは、七年後にようやく「失踪宣告」して死亡したことにしてもらえるまで、保険料を払い続けなければならないということです。平均年間保険料の六十一万円で換算すれば、年四百二十七万円が無駄になるということです。まあ問題は自殺が未遂に終わったり、自殺しても生命保険がもらえなかったりする場合ですけどね。まず前者、一番困るのは自殺が未遂に終わり、重度の後遺症が残ってしまうことです。まあ障害基礎年金はもらえますけど、高額な医療費や介護する人間の心労は凄まじいですね。後者は真っ先に考えられるのが、葬儀費用と寺院関係費用ですよね。葬儀費用の全国平均が228、7万、寺院関係費用が俗名でも20〜25万円+車代かかります。もちろん葬儀費用は安く済ませれば50数万でも済みますが。社会保険に加入しているから支給される埋葬料、国民年金に三年以上加入しかつ遺族基礎年金を受け取れないから受給できる死亡一時金もありますが、これらはすずめの涙程度に過ぎず、やはり生命保険が受給できないとなると厳しいです。だから僕は父さんに精神障害者と認定されてから自殺してほしいです。そうすれば故意の自殺ではなく、精神病でまともな判断力が欠如して行われた自殺として保険金が支払われる可能性が少しは高くなるからです。もうちょっと詳しい話は追々話しましょう』
なぜここまで弟は自殺や生命保険について詳しいのだろうか? いやその前にまず自殺を引き留めろよ。しかし、父の自殺なんてどうせ口だけにすぎないのだから、私は特に何も言わなかった。父は私の思惑を裏切り凶行に及んだ。なんてことにならないように、早く母親を見つけて家に戻るようにお願いすることも大切だ。それに弟が父に対して不慮の事故なるものを起こしてしまいかねない。
新年になっても特に大学は変わったことはなかった。いつもの授業、いつものサークル、いつもの友達、いつもの敵、私は変わらぬことを喜びつつも、何か新しいものが現れることを望んでいた。でもいくら待っていてもそんなもの現れるわけないのもわかっていた。自分で手探りで探っていかなきゃ何一つ得るものなんてない。しかしながら、それが人間なかなかできない。与えられるものをただ享受する方が圧倒的に楽だからだ。人間は道を指し示してくれる自分以外の誰かにずっとすがっていたいのである、ずっと。
家に帰ると、父は会社に行か(け)ずに、「気と霊力を用いた自己啓発セミナー」とかいういかにも怪しい集会なるものに行って、いかにも怪しい高額な壺を買ってきていた。父曰く、
『この壺一つで我が家の家族すべてが救われるというとてもお買い得な品物』
らしい。父が救われる日はいつ訪れるのだろう?
今夜の夕食もカレーだ。いい加減にしてほしい。弟に夕食の支度を任せた時点でこうなることはわかっていたが、改めて目の前にカレーを出されると吐き気を催す。カレーが時にここまで残酷な存在になるとは思いもしなかった。あと三日もカレーを食わされたら、ヒ素を入れなくても死んでしまう。そういう点でもタイムリミットは迫っていた。
父は連日「気と霊力を用いた自己啓発セミナー」に通いつめて、気づけば家は壺だらけになっていた。そして父はセミナーから帰ると喜びを体中から発しながら、嬉しそうに語った。また預言者・リーリプライヤの話だろう。
『いいかお前たち、神の代行者である預言者・リーリ・サプライヤ様は言われた。いずれアポカリプスと呼ばれるこの世界の終わりが訪れるんだ。世界中のすべての生物がなすすべもなく死に絶える。それは我々人間も例外ではない。だが、この聖なる壺が家にあればあるほど、我々が救われる可能性は否定できなくなっていくらしい。だから家族が協力してこの壺を守っていく必要がある』
あれ? 預言者の名前微妙に昨日までと変わってねえ? いやそんなことはどうでも良い。どんどん深みにはまっていく父をこれ以上見過ごすわけにはいかない。それにこれ以上部屋の中に壺が増えたら歩きづらいじゃ済まなくなる。私は弟に目配せして、二人で壺を壊し始めた。その光景を父は絶叫しながら見ていた。これも父のためだ、と自分に言い聞かせていたが、心のどこかではこの壺を壊す作業を楽しんでいた。
完全に粉々になった壺を見ながら、父は悲嘆にくれ言った。
『お前たちどういうつもりだ。もう我が家には壺を買う金は全くないのだぞ。明日アポカリプスが訪れたらどうするつもりなんだ?』
壺を買うお金がないということは、私と弟が進学するためのお金もないのだろう。このもろい壺は一体一ついくらしたものなのだろう。COOPのフライドチキン以上に値段を聞くのが怖くなる。私は多少怒りを混ぜて父に言った。
『父さん、誰にでも終末は訪れるものなんです。誰もが憧れるスターにだって、腐ったみかん以下のお父様にだって訪れます。人生の終わりというのはおそらくそのアポカリプスとやらよりも早く訪れますよ。だから皆予行練習が必要なんです。知能を持つことは素晴らしいことですが、それに比例して皆悩んだり苦しんだりしていずれ死後の世界に旅立つんです。こんなMADE IN CHINAな壺にどうして我々を救う力があると信じられるのですか? なぜ一緒に飲みに行って打ち解けてもいない人間の言葉を信じられるのですか? 私には理解しかねるものがあります。確かに人間与えられるものをただ享受している方が圧倒的に楽です。他人にすがり、他人が指し示してくれる道をただただ妄信して進む方が楽です。でもそれは人間の愚行ですよ。人間の愚行Fです。自分で道を切り開いていかないと何一つ得るものはないというのに、人間はなぜか自分以外の誰かに依存してしまうのです。おそらく自分一人では自分が道を切り開くことで生じる責任に耐え切れないからでしょう。責任を少しでも水で薄めたいのでしょう。しかし、父さんにはそういう存在であってほしくない。私と弟の父さんなんですよ。できれば父さんにはいつまでも尊敬できる存在であり続けてほしいのです。私が言いたいのはこれだけです。これを聞き届けていただけましたら、あとは壺を買うなり、塞ぎこむなり自由にしていただいて結構です』
父はそれ以上何も言わなかった。私と弟は粉々になった壺の後片付けをし、それぞれの部屋に散らばった。
最近どうも弟の行動には悪気がないのだと思い始めてきた。たとえば、毎日のカレーにも僅かではあるが変化をつけようと努力している。受験生にもかかわらず、夜密かにカレー作りに励んでいたりする。今朝出されたイリオモテヤマネコを使ったカレーに関しては味付けから工夫されていた。ただイリオモテヤマネコが特別天然記念物であることを言っておけばよかったということは若干思ったりしたが。どこから取ってきたのだろうか? まさか八重山諸島の西表島まで行ったなんてことはないよな。こういうふうに色々工夫してくれるのは兄さんとっても嬉しいのだけれど、所詮カレーはカレーなんだよね。それに猫うめぇなんて思うわけないしね。私も最初面倒くさくて乗り気じゃなかったけど、近頃本気で母には家に戻ってきてほしいと思う。そして、カレー以外のものを私に食べさせてほしい。
父は出勤した。そんな父を私と弟は哀れむような目で見送ったりしていた。私は弟に言った。
『受験を控えたお前にこんなこと言うのはあれかもしれないが、父はおそらく我々の学費も「気と霊力を用いた自己啓発セミナー」や壺代に当ててしまったと思う。だから、大学に受かっても、自分でバイトしたり奨学金を受けたりして学費を工面しなければならないと思う。苦労するだろう。私もそうなるだろう。だが、二人で力を合わせて乗り越えていこうな』
私のこう言った発言に弟はせせら笑う。
『ふふふ、兄さん何を言うんだい? 笑わせないでおくれよ。自分の金脈が親の支援だけなのが許されるのは小学生までですよ。当然独自の収入源を確立してますよ。兄さんもしかして金に困ってます? じゃあ今すぐ200万程届けさせますよ』
私は弟が何を言っているのか理解できなかった。弟は携帯電話を取り出すと、どこかに電話した。プルルルルル、プルルルルルル……。
『俺だ。円で200万円を政の奴にうちまで届けさせろ。え? ああ別にドルでもユーロでもかまわんよ。え? え? ああその件はいつものように架空口座を使って……。それと何? え? ああ、え? ああその件は財務省が五月蝿いからな、わかった、後で俺も行く。じゃあ切るぞ』
10分後、本当に200万円が届けられた。私は驚きで言葉も出なかった。だが私は必死で何かを言おうと思った。そして、弟に対し鼻の下を人差し指全体で擦りながら、
『へへっ、かっこつけやがって、畜生!』
とだけ言った。
今年はよく雪が降った。雪かきをしたらそこから母が出てくるのではないかと思ったが、実際そんなことはなかった。むしろ雪に埋もれそうなのは父の方である。降った雪は役立たずでちぎっては投げ、ちぎっては投げする以外に用途はなかった。雪球が狙った木に当たる命中率は心なしか上がった。それが何よりのお年玉だった。
『雪うめぇぇぇぇぇぇ』
隣で弟がほざいている。弟が言うにはガ○ガリ君なんてよりよっぽど酸味が効いてておいしいらしい。降ったものが酸性だったから? んなわけねーだろ。
第四章「アポカリプスC」
ついに弟のセンター試験が始まった。有名予備校講師など受験の専門家たちは口を揃えて言う。
『今年の受験の目玉はやはり、お年玉付きセンター試験受験票だろう』
大学入試センターが少しでも受験生の減少に歯止めをかけようとした苦肉の策として今年から導入された。受験番号がそのまま抽選の番号になっており、一等は『志望校無条件合格』と『マウンテンバイク』のどちらかを選べるシステムになっている。
抽選は日曜日のテスト終了後で、弟はどうだったかというと、五等のロリの犬携帯ストラップを持って帰ってきた。
『預言者・リーリ・サプライヤ携帯ストラップも選べたんだけど……』
と弟は迷った末こっちにしたよ、みたいなことを言っていたが、私には本当にどうでもよかった。ちなみにこの受験票は来年受験した際にも抽選に使えるWチャンス的要素もある。
『あー、マウンテンバイクほしかったなあ』
と弟はぼやく。本当にそう思っているのか?
読者は気づいているかわからないが、最近父の帰りが遅い気がする。ある日は仕事がたまっているから会社に泊まると言ってきた。弟は惜しげもなく言う。
『俺の計算によると十中八九女だな』
『たまっていたのは仕事だけじゃなかったというわけか?』
はたしてそうなのだろうか? あんなに母さんを愛していたのに、すぐそう簡単にJRのように乗り換えられるものなのだろうか? でも言われてみれば最近父の顔色が良くなっている気がする。艶がありニス塗りも欠かしていないようだ。私はそれとなく父に聞いてみることにした。
『父さん、母さんについては立ち直れたのですか?』
父は少し考えて答えた。
『はて? カーサン? 何それ? 美味しいの?』
女だ。100%女だ。あんなに愛して止まなかった母をいとも簡単に捨てられる女の存在が現れたのだ。私は問い詰める。
『父さん、女ができたのですか?』
父は少し考えて答えた。
『えっ!? どの女の話だい?』
不特定多数いるのか? まあ父に何人女ができようが別に良い。いままで私たちは父の心のよりどころを取り戻すために母を捜していたのだから、父が他の女でも代役がきくというのなら素直に喜ぶべきだ。ただ私が危惧するのはそんなことではない。どこか現実が歪み始めていないだろうか? どこか腑に落ちないのだ。今進んでいる現実が、何かとんでもない方向性を帯びている、そんな感覚に覆われているのだ。
珍しく父が料理を作っている。私は期待を込めて父に尋ねた。
『父さん、何を作っているんだい?』
『カレー』
現実ってそれほど期待しちゃいけないものだったんだね。
『だって父さん、カレーとビーフシチューとハッシュドビーフしか作れないからさ。仕方ないだろ?』
食事中私はずっと父の料理をどう褒めたらいいか、そのことばかり考えていた。それぐらい父の料理はとらえどころがなかった。言い換えれば人間の食い物ではなかった。一口一口噛み締めるごとに濃厚な不味さが伝わってきた。涙が頬を伝わる。
『そうか、泣くほど美味しいか、父さん嬉しいぞ』
お決まりの台詞だ。もはや涙の味しかしないというのに……。弟は美味しい美味しい言って食べている。勘違いも甚だしい。いいかい、これは不味い食べ物なんだよ。
大学はテストだ、レポートだと忙しくなってきた。私はそんなこともおかまいなく弟と共に父を尾行していた。それにしても弟は私大受験と言ってなかったか?
『受験以上に大切なものってあるだろ?』
そうか? 受験以上に大切なものは差し当たり見当たらない今日この頃だが。
父は何事もなく会社に入っていった。そして、私たちも散った。
夕方、私たちは再び張り込んだ。他人のプライベートを垣間見るというのはなんて快感なのだろうか。ここで父が後ろめたい行動でもとってくれればなお面白い。弟もどうやら同感なようで、息遣いが荒くなっている。高校生でそこまで変態なのもどうかと思う。
父が出てきた。ここで真っ直ぐ家に帰ってくれば、良いパパの称号を与えよう。しかし、パパはいけない子だったようだ。駅前に着くと、そこにいた女性と親しげに喋りながら歩いていった。私はニンマリして弟に話しかけた。
『これは不適切な関係ってやつかな?』
弟は邪悪な目つきで言った。
『ここは温かく見守ろうじゃないか』
父と日本人女性はこじゃれたレストランに入っていった。私たちもマスクとサングラスという完璧な変装で彼らの座ったテーブルの隣に座った。父はその日本人女性に話しかけた。
『君の瞳に乾杯っ!』
年齢というものを考えてほしいものだな。その日本人女性も私と同じ気持ちのようで、
『この老いぼれが、よく言うぜ』
と言った。よく見ると良い女だ。弟は言う。
『この後はお城かな』
順当にいけばな。普通なら実の父親のこういった話なんて素直に喜べないものなのだろうな。そういった意味で私たち兄弟は脊椎動物の中でも異質な存在なのだろう。
食事が終わると、父と日本人女性は夜の歓楽街に消えていった。夜の歓楽街は怪しい光を発している。すべてを悟った私と弟は公共交通機関に揺られながら、冷え切った我が家に帰っていった。
第五章「アポカリプスD」
『父さんな、この人と再婚することに決めたんだ』
父はどこか照れくさそうである。父を尾行してから三日後のことであった。父が再婚するからといって誰も父を責めないよ。ただ一つだけ気になることがないわけじゃない。幸せに水を差すみたいでこんなこと考えること自体間違っている気がする。しかし、言わせてもらう。父が再婚する女の人が先日尾行したときに見かけた女の人とまた違う人なのはどうしてだろう? そんなこと考えても仕方がない。こないだの人はきっとなんでもないただの知り合いか仕事関係の人なのだろう。
『父さんな、確かに母さんを愛していたけど、今はこの人以外考えられない。もはやこの人以外の女性とは一緒に食事をする気にもならないのだよ』
……。……。父がそういうならそうなのだろう。弟は父の再婚のお祝いにYES・NO枕をプレゼントしていた。二人の愛の営みを邪魔してはならない、とこしゃくにも思った。
父の再婚相手の女性は幸運にも料理ができた。私はそれだけが嬉しくて仕方がなかった。
私は人並みの食生活を回復していくにつれ、自分の中で母の存在が薄れていくことに気がつかなかった。
弟が東大に合格していたことが明らかになった。資料請求をした次の日に合格通知が届いたらしい。
すべてが表面上はうまくいっている気がした。正月にやった郵便局のアルバイト代42000円は私の懐を温めたし、国際事情のレポートも提出し、後期の成績に絡む事柄も山を越えた感があるからだ。
春が来た。弟が進学するため上京するのを私は見送りにきていた。
『母さん、捜索できないで残念だったな……』
私は弟に言った。弟は不敵な笑みを浮かべ、私に言った。
『ああ、あれな、母さん実は家を出て行って愛人のもとに行ったんじゃないんだ』
『どういうことだ!?』
駅員がアナウンスする。
『一番線から東京行きの新幹線が発車します』
『あっ、もう行かなきゃ』
『おい、どういうことなんだ、母さんどうしたんだ?』
『兄さんも大人になればわかるよ』
すべてが表面上だけはうまくいっているとばかり思っていた。
めんどくさくなったので完
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