『僕と彼を繋いだもの』秋山涼
夕日の差す時間、この県の中心地にある駅で電車を待つ人の数はそれなりに多い。僕もその例に漏れず、列の一つに並んでいて、風景の一部と化している。時計を見ながら電車があとどのくらいか確認し、まだ時間がかかるとわかると途端に暇になってしまう。今日に限って小説を持参するのを忘れてしまった。
そこで退屈しのぎに辺りを見回してみると、少なからず年代を感じさせる壁面やら床やらが視界に入ってきて何か懐かしい気分にさせる。ノスタルジーとは違う、この気分の正体は未だにわからない。
っと、暇になるとついこんなことを考えてしまうのは僕の悪い癖かもしれない。小説の読みすぎだろうか。でも風景や人の波なんかを観察するのはなかなか面白いもので、やり始めると止められない。
「あ」
挙動不審な人物と思われることもいとわず趣味に没頭していた僕は、見知った顔を認め、思わず声を上げていた。もっとも、その声は後ろに並んでいる人に聞こえるくらいだから、その人に届くことはないだろう。
季節のせいか時間のせいか、すっかり身長の低くなった太陽の光を背に受けて緩やかに歩いている男は、僕にとって思い出深い人だった。
彼と最後に会ったのがかれこれ八年近く前だったことを思い出す。偶然に再会した友人の姿をついしげしげ眺めてしまう。久方ぶりの再会にも拘わらず、彼だということはすぐにわかった。
髪は一段と長くなっているが、顔の造作はあの頃とあまり変わったところは無い。変わったところと言えば、頬から余分な肉が無くなったことと、眼鏡を外していることくらいか。
些細な変化かもしれないが、それでもその変化は彼と会わなかった年月の長さを感じさせ、僕は何となく彼に話しかけることが出来なかった。あの頃と変わらない際立って鋭い目つきが、僕を含む全ての人との関わりを拒んでいるような感覚を抱かせたのだ。
それでも、僕は彼から目を外すことは出来なかった。彼は、中学生の頃、自分の性格のために友達が出来ずにいた僕の唯一の友達だった男だからだ。まあ、それなのに話しかけにいけないことに矛盾を感じもするのだけど。
彼の姿を見ながら、僕の頭の中には次々と彼との思い出がフラッシュバックしていた。
僕は根っからの内気な男で、人に自ら話し掛ける勇気を持つことがどうしても出来なかった。
中学生になってもそれは変わらず、そんな僕は教室では当然の如く疎外感を味わっていた。昼休みになると、それを避ける目的も兼ねて図書室にこもるようにしていた。本は好きだったし、利用者が少なかったから精神的にも楽だった。
しかしながら、殆ど毎日通っている僕にとって、図書室の中の本は読みつくしたか興味が沸かないか、もしくは僕には理解出来ないものかのいずれかしかなかった。
論語や孟子などの有名な漢文や、枕草子や源氏物語などの古文も開いてみたが、いずれも中身が全て原文で閉口していた。
しかし、司書の方が徒然草の現代語訳を新刊図書として購入したと言うので、僕はそれを暇つぶしに読むことにした。三年になったばかりだったから、少し高校生になった時のことを意識していた。
古典のコーナーに並べたと聞いたので、その場所に向かい、探し始めた。本棚の上から一つずつチェックしていると、原文で到底読めやしないと思っていた方丈記が借りられていることに気付いた。
読み方も習っていないというのによくよく読む奴もいるものだと思ったが、ひょっとしたら兄や姉に頼まれたのかもしれない。
いずれにせよ、こんな難解な文章に挑むのは感心なことだと思いつつ、現代語訳の方を探すのを続けていた。普段見ていない古典の棚だけに、探すのは困難だと予想していたが、それも暇つぶしにはなるはずだ。
というのも、この学校の図書室は、ずっと前の司書が何を思ったか図書を作者ごとに並べてしまったので、目的の一冊を探すときは厄介極まりないのだ。
案の定、棚を眺めてみても、なかなか見つからなかった。探索に夢中になるあまり、僕は近付いてくる足音に気付かなかった。
結局、上靴にありがちなゴム底が床のタイルと擦れ合う音を僕が知覚したのは、その音を立てていた人物が僕の見ている棚の端に着いてからだった。
だが、それでも僕がそれでも探し続けていると、その人の方が先に僕に気付いたようで、
「ん? 誰かと思ったら酒井か」
持ち前の低い声で僕に声をかけた。
瞬間、本当に息が止まった。僕のすぐ側に立っていたのは、僕よりもクラスの中で浮いている人間だった。
僕より一回り身長の高い、威圧感を与える風貌から放たれた彼のイメージにぴったりの尊大な口調に、僕はすっかり縮こまってしまっていた
「は、長谷川くん」
その時までは、正直彼が苦手だった。この時も、名前を返すことしか出来なかった。
「この学校でこんなところを見ているやつがいるとは正直驚きだな」
言って、彼は棚にずらりと並んだ古典を親指で指した。
「何か探しているのか?」
口調は尊大そのものだったが、何となく安心感を覚えた。見た目、特に目つきほどきつい人じゃないようだと感じ、
「うん。徒然草の現代語訳が入ったって聞いたから」
正直に答えた。見た目ほど怖い人ではないかもしれないと感じられた。
「今頃入れるとはな。呆れたもんだがまあ良い。それならここら辺に……。お、あったぞ」
その言葉を喋り終わる前に、彼は僕の探していた本を探し当てた。その早業に、僕は驚きを隠しきれなかった。
「ど、どうやったの?」
「何のことは無い。徒然草を訳した奴の名前で探してみただけだ。ま、この学校の図書室とか本屋でしか使えないがな」
肩をすくめて事も無げに言うが、それは徒然草を訳した人が殆ど頭に入っていなければ出来ない芸当ということはわかった。
どことなく底知れないものを感じながら、僕は彼に礼を言った。
僕に徒然草を渡して、彼は方丈記をしまい、僕が名前しか知らない古典を取り出して場から去ろうとしていた。
「あ、良かったら先に読まない?」
僕は、自分でもよくわからない気持ちのまま、彼を呼びとめていた。
「構わんよ。俺は原文で読んだしな」
彼は立ち止まって振り返ると、興味すら無いようにそう言った。
「は?」
「だから、原文で読んだんだが」
理解に苦しむ言葉だった。だが、彼が先程方丈記を棚に戻していたことを思い出し、彼ならば出来るかもしれないと思えた。
およそ中学生とは思えない芸当を成す彼に、僕は並々ならぬ興味を抱いた。少なくとも、僕の内気の虫を押し黙らせるくらいには。
「あれってどうやって読んだの?」
「暇に飽かせて読んだ」
ひょっとしてそれは冗談だったのだろうか。悩むところはあったが、孤高なイメージの彼の口から出たその言葉に、思わず僕は吹き出した。
「読み方を知っていれば読める」
どうやら本当に冗談だったようだ。僕の反応を見てから言ったところを見ると間違い無いだろう。
その時、彼の口元には穏やかな微笑が浮かんでいた。
教室では常に無表情でつまらなそうにしている彼の姿からは信じられないものだった。
でも。
僕は彼の本当の姿に触れたような気がした。
たった一端だけかもしれないけど。
これが僕と彼が友達になったきっかけだった。
「その眼鏡、随分分厚いけど、そんなに視力悪いの?」
「そうだな。それに、この眼鏡が無いと大変でな。ひどい時には警官まで寄ってくる」
相変わらず人を避けて通う図書室。僕が何気なく発した言葉に、彼は苦笑気味にこう返した。
友人という間柄になってからは、僕達は休み時間に話すようになった。昼休みも一緒に図書室に行くようになり、以前よりも遥かに楽しい学校生活を楽しんでいた。
短期間ではあるが彼と話してわかったのは、彼が独特のユーモアに富んだ、とても人間味溢れる人物だったということだ。
「確かに長谷川くんは目付きが悪いけど、そんなに?」
彼は僕の問に答える代わりに、眼鏡を外してみせた。
さすがに本人が自覚しているだけあり、その姿からは意図せずとも殺気を放っているようにすら思えた。でも、彼の人間性をある程度知っているためか、震え上がるほどではなかった。
「警官が寄って来たら何て言って誤魔化すの?」
僕は敢えて茶化してみた。
「まだ中学生だと言うしかないだろう……って、何が誤魔化すだ馬鹿野郎」
お堅いイメージを持っていたが、その実態は飄々とノリツッコミもこなす、味のある人間だった。
「ま、この通り犯罪風味な目付きだからな。無意味に人を怖がらせるわけにもいかないだろう」
溜息混じりに僕に言う。その顔にはうっすらと諦観すら覗いていたが、諦めきっていないこともわかった。
独尊にも見えるが、その実彼は他人に気遣える優しさも持ち合わせていた。そのことを彼に言ってみたら「警官に呼びとめられるのが嫌なだけだ」と一蹴されたが、僕は信じていない。
彼は本当に凄い人間だった。運動はそれほど出来るタイプではないが、勉強は限界を感じさせないほど出来た。
僕は彼に色々なことを教えてもらった。代わりに、僕はお勧めの小説を紹介した。彼が読むのは古典や理系の専門書くらいなので、小説も読むと良いと僕が提案したのだ。思いの外喜んでもらえて結構嬉しかった。
僕が彼と友人になれたのは、きっと同類だからじゃない。彼は偉大な能力を持っていて、僕など本来歯牙にもかけない人間だったろうが、それでも彼は僕の価値を認めていた。それは単なる話相手としてではなく、言うなればもっと感覚的な面からだったと思う。それが誇らしく、嬉しかった。
とはいえ、彼に何か出来たかというと、僕には小説を勧めたこととしか言えないのが情けないところではある。
最初は読む気が起きないと言っていた彼も、僕が好きな本を紹介してみると、取り憑かれたかのように小説を読み始めた。そのことに関しては彼に熱烈に礼を言われた覚えがある。
彼はテレビゲームをしないらしく、家でしている事と言えば大半が勉強らしかった。それでは息が詰まるだろうと思い、僕が彼に読書を進めたのがきっかけだった。
彼は最初露骨に嫌な顔をした。それを見るなり僕は諦めかけたけど、本音を言えばどうにか彼と共有できる趣味を持ちたかったのだ。
「ふむ……。お前がそこまで言うなら一応読んでみるが、何を読めば良いんだ?」
彼は眉間にしわを作りながら聞いた。彼なりに譲歩しているようだ。
「うーん、どんなジャンルが好きなの?」
「そうだな」
彼はそこで言葉を切ると、思い切り悩み始めた。読んでいる本からは興味を持てるものが見つからないのだろうか、彼はしばらく悩んだ後、
「竹取物語で、帝に迫られたかぐや姫が影になって隠れるシーンがあるんだが、そんなのに心惹かれたことがあるな」
何とか、といった感じで答えた。好きなジャンルというよりは一番マシなジャンルなのだろうが、それがわかっただけでも安心した。
ファンタジーは僕が好きなジャンルでもあった。外国作家の著書も読んでいたけど、僕は日本の方が断然優れたファンタジーがあると思っていた。その中から一番面白かった作品を選んだ。
「カオスレギオンなんかどうかな。多分この学校の図書館にもあったはずだけど。借りる?」
「どんなものだ?」
「一言で括る自信は無いよ。そのくらい大きな作品だと思う。竹取物語のその場面みたいなところに近いシーンもあるよ」
僕はその作品が好きだった。一言では語りつくせないほどの物語、登場人物の力強さ、語られる一言一言に惹かれていた。彼にもこの気持ちがわかってもらえると嬉しいのだけど。
「なるほど。小説の類を無数に読んでいるお前がそこまで言うなら興味深い。読んでみるか」
彼がそう言ってくれたので、僕はひとまず胸を撫で下ろした。彼にとって迷惑ではないかと心配していたのだ。
昼休みになって彼と一緒に図書室に行き、目的の本棚に向かうと、果たしてその本は誰にも借りられずに残っていた。これ幸いと彼に促し、借りさせた。
半ば強引な手段だったかもしれないけど、そこまでしてでも彼と共通の趣味を、それも語りやすい趣味を持ちたかった。
翌日、彼は眠気と興奮を半分ずつ抱えた様子で教室に入って来た。鞄を机に置くよりも先に僕のところへやって来た。
喜んでくれたかつっぱねられるか、内心冷や冷やしていたが、彼は、
「酒井、ありがとう……」
眠気を堪えきれなかったのか、あくびをしつつ僕に礼を言った。
あくびが出るほど退屈な話だったのか、夢中になって眠るのも忘れて読み続けたのかいまいち判断出来なかったので、僕は彼に感想を聞くことにした。
「読みきったの? 面白かったか感想聞かせてよ」
彼はあくびを押し殺すと、一言、
「読み終わった時には空が明るくなっていた」
とだけ呟いた。
どうやらこちらの思惑に見事にはまってくれたようだ。
「一話から少し惹かれるところがあったので読み続けてしまったのが運の尽きだった。借りた三冊を全て読むまで寝ることを忘れてしまった」
淡々と語るが、それはきっと眠気でテンションが上がらないだけで、未だ冷めやらぬ興奮は十分に伝わってきた。
ホームルームが始まるまで僕に独白のような感想を言い続け、とうとうその日はいつまでもその小説についての話を語り合ってしまった。
彼はすっかり小説の魅力にやられたようで、その後は貪るように本を読んだ。図書館や町の本屋の目ぼしい本を大体読み尽くした僕と話が合うようになるくらいに。
小説を薦めたことは、いつも彼に感謝された。僕が目に見える形で感謝されたのはそのくらいだった。それでも、彼に感謝されるようなことが出来たので嬉しかった。
僕が彼と最後に会ったのは、中学の卒業式だった。
僕は教師にも校舎にも、増してクラスなどに未練は無かった。けど、たった一つの心残りが、彼との別れだった。
彼は県下一の進学校への合格を推薦入試で決めていたが、僕の学力はお世辞にもそんなところに到達するほどのものとはいえず、仕方なく彼と別の高校を受験したのだ。
式が始まる前からそのことに憂鬱さを感じていた僕は、卒業式に全く集中出来なかった。
しかし、彼はそんな僕の気持ちとは裏腹、クラスの代表として卒業証書を受け取っていた。その姿は、見ていなかったけれども、他のクラスの代表よりも数段颯爽としていた。
その姿が、途方もなく寂しかった。卒業の証明書を受け取った事は、僕と彼の別れを意味しているように思えたからだ。そして、彼がそれを受け入れたかのような、そんな気持ちを僕に抱かせた。
いつもは一握りの人間しかしか歌わない校歌をその日ばかりは全員が歌い、僕達は体育館を後にした。教室ではお約束のお涙頂戴の話が沸いて出るのだろうかと陰鬱さを感じていた。。
予想通り、教室の中では、教師の話やみんなの思い出を口々に語るなどのことがあり、多くのクラスメートが泣いていた。傍から見れば妙に結束の強いクラスだったから、名残惜しいというのはわかった。
その中で、僕と彼だけが浮いていた。
彼は泰然とした様子で椅子に座り、腕組みをして動こうとしなかった。
僕は、そんな彼を見つめることしか出来ず、何故か席から離れられずにいた。
そんな余韻に浸る暇を僕達に与えた担任が戻り、卒業証書が全員に渡されると、いよいよ外に出て下級生に見送られながら帰宅するだけ、ということになった。
みんなが次々と教室を出て行った。僕と彼は最後尾で一緒になった。
「長谷川くん――」
「別れなんて言うもんじゃないぞ」
僕が言いかけた言葉を遮りながら、彼は僕の頭に手を乗せた。
戸惑う僕に、彼はいつも通りの笑顔を浮かべた。
いや。
少しだけ違った。僕にしかわからないであろう濃度で寂しさが混じっていた。押し殺していたが出てしまった、と言う方が正しいのかもしれない。
僕はつい押し黙ってしまった。
そのまま靴を履き替え外に出ると、見たことの無い顔がずらり並んでいた。僕達以外の人の卒業を祝う下級生だ。
少し目頭が熱くなった。下級生が来たことにではなく、もう学校に来ても彼と会えないことを実感させられたからだ。
彼を見ることが出来なかった。別れがこんなにも悲しいことだと知らなかった僕は、泣き出してしまいそうな自分を懸命に抑えていた。
そんな僕を見かねたのか、彼は僕の肩に腕を回した。初めてのことだった。
「しょうがないやつだな、お前は」
「ごめん……」
「ま、俺が言えたことじゃない」
下級生からの見送りもなく、クラスメートと盛り上がることもなく、僕達は肩を組んで歩いた。僕の腕は彼の肩に届かなかったけど、そんなつもりになっていた。
「長谷川くんがいなくなったら、寂しくなるな……」
学校を出てからも二人でしばらく歩き、少し距離の離れた公園のブランコに座ってから、僕はようやく自分の気持ちを言えた。
「いなくなると言っても会えなくなるわけじゃない」
「うん、わかってるんだけどさ」
「ま、その気持ちはわからんでもないがね」
俺もお前と同じ気持ちだと彼は言った。やっと出来たただ一人の友人との別れは、思いの外辛いものだった。その気持ちは彼も同じだったのだろうか。
「長谷川くんがいなくなると、僕はまた独りになるな……」
「それは俺も一緒だ」
「僕さ、ホントに自信が持てないんだよ。人と話す時に必ず心が萎縮しちゃって、しどろもどろにしか話せなくなるんだ」
「自信を持て。俺と話すときも最初はそうだったが、今では饒舌なもんじゃないか」
それは確かに不思議なことだった。何故か彼と話すことには一切の抵抗が無かったのだ。
話してみれば意外とすんなり話せるんじゃないか、と彼は言ってくれた。彼は安易な励ましを嫌う人だから、それは本心なのだろう。
その時だけは、僕の心に随分と前から沈殿していた澱のようなものが全て消え去ったような気がした。
僕達は、まるで別れることを拒むように話し続けた。
しかし、どんなに話題を出しても話は終わる。今までのこと、将来の夢、様々なことを僕達は語り合い、そして、話題はなくなってしまった。
しばらくの無言の時間。
どれほど続いただろうか、彼は大きく伸びをすると、僕に顔を向けた。
「そろそろ、帰るか……」
「うん……」
彼と目が合った。こんな時に言うべき言葉を、僕は一つしか知らなかった。
「さよ――」
「言うな」
「え?」
「またすぐ会えるだろう別れならともかく、長い別れになりそうな時は、別れの言葉を言わないのが俺の流儀だ」
そこで一度言葉を切り、これまで見せたものよりずっと穏やかな笑顔になって続けた。
「また会うために、という意味を込めて、な」
その言葉に、僕は彼なりの別れがたさの表し方を感じ取った。
「そっか。そういうの、何か良いよね。じゃあ……」
『また会おう』
二人同時に言い、僕達は互いに背を向けた。
その時から今日まで、僕達は一度も会っていない。
思い出の中の彼は、僕の目の前にいる彼の中にいるのだろうか。
僕はそれを確かめたい気持ちで、ずっと彼を見ていた。
彼は鞄の中から小説と思われる大きさの本を取り出した。僕の目はそれに釘付けになった。背表紙だけでわかる。それはファンタジーばかりを扱う出版社のものだった。僕の薦めたものがまだ彼の中で生きているんだと思えた。
だが、彼はそれを読み始めてすぐに閉じると、続いて鞄から眼鏡ケースを取り出し、そこから眼鏡を取り出すと、それをかけた。その眼鏡は、よく見ると彼が中学の頃にかけていたものと同じものだった。
そして、眼鏡をかけたその顔は、あの頃と殆ど変わっていない彼だった。
僕は自分を恥じた。話しかけるのに戸惑いなんか感じる必要なんか無かったことに今更気付いた。変わっていないのは顔立ちだけではないはずだ。
多分、僕が忘れていただけで。
僕は彼の方へ歩き出し、声をかけた。
「長谷川くん、だよね?」
彼はゆっくりと顔を上げると、一瞬驚いた顔を見せたが、すぐにあの頃と同じ穏やかな微笑を浮かべた。
「久しぶりだな、酒井」
彼はしっかりと僕を覚えていた。そして、やっぱりあの頃と変わったところなんて、無かった。
電車が僕達の目的地に着くまで、僕達は昔話に花を咲かせた。
駅に着いてからは、しばらく近況を話し合った。
彼は大学院に入り、有機化学の研究に没頭するあまり家にもあまり帰れないでいるらしい。延びた髪の毛はそのせいだと言う。彼らしいといえば彼らしい理由に、僕はこらえきれずに笑い出した。
僕が未だに人とあまり話せないことを白状すると、彼は「自信を持て」と言ってくれた。それはあの卒業式の日にも言われた言葉だった。
それでも俯いたままだった僕に、彼は「俺はお前と友達になれて良かったと思ってる。俺には友達なんか出来ないと思っていたからな」と続けた。
あの日言われなかった言葉だった。そしてそれは、僕自身も思っていたことだった。
「俺は高校に入ってから少しは友人が増えた。お前のお陰だと思っている」
僕は彼に多くのものをもらっていた。もらってばかりだと思っていた。でも、僕も彼に大切なものを与えていたのかもしれない。
僕がそれに気付いたことを表情で読み取っていたのか、彼は優しく微笑んでいた。それはあの日よりも遥かに穏やかな、いや優しい顔に浮かんでいた。
まだ若かった頃の僕が欲しかったものが手に入った気がした。
彼はやっぱり変わってなんかいなかった。目付きの悪さも、視力の悪さも、尊大な口調も、内に秘めた穏やかさと優しさも。
僕は自分が恥ずかしくなった。彼は色々な人と関わり、成長を遂げていた。それに比べて僕は……。
「日も暮れたな。そろそろ帰るか?」
「そうだね。今日は久しぶりに会えて楽しかったよ」
「俺もだ。じゃあな」
そう言って、彼は僕に背を向ける。その別れの言葉が示す意味を僕は忘れていない。
僕に背を向けた直後、彼は、
「お前は俺の最高の友達だ。自信を持てよ」
顔だけ僕に向けながら、そう言った。
僕が言葉を返すよりも早く、彼は迎えに来た車に乗り込んだ。
彼を載せて走る車が去っていくのを見送って、僕は携帯を取り出し、彼に初めてのメールを送った。
『僕も君が最高の友達だと思ってるよ』
と。
正直、まだ自信なんて、無い。
でも、彼とメールなり電話なりで話せるというだけで彼が側にいてくれるような気がして、とても心強かった。
今日はお互い別れの言葉を言った。彼とは近い内にまた会える気がする。ならばその時までに僕は少しでも彼の変化に追い付こう。
そう僕が決意を新たにした時、ポケットの携帯が震える。
彼からの返信だった。
『一発目から何を恥ずかしいこと言ってやがる』
夕日も沈み、星と月が仲良く顔を出している帰り道、僕は少し赤面しながら歩いた。
僕が彼と再び話すきっかけになったのは、もしかすると眼鏡と小説だったのかもしれない。彼が変わっていないと確信出来たきっかけなのだから。
きっかけとしては滑稽かもしれないけど、そんなのも良いと思う。
僕達はこれで良いのだと思う。
人と人との縁は、どんなものから始まるかわからないのだから。
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