『bi-couse』楓里庵
その日絵里子は美術室のベランダで独り、うずくまっていた。
五月下旬の強力な日差しが容赦なく彼女を、コンクリートの床を照らしている。
おもむろに缶ペンの蓋に触れた。水銀温度計のようにじんわりと、指に熱さが伝わる。
その指を額に持っていくと、彼女は気だるそうに呟いた。
「…… 暑い」
そのままの姿勢で目を動かすと、正面のクリーム色の壁は一瞬金属を映してから白と青のマーブルの空になり、灰色の床になり、そして真っ白な四つ切のケント紙になった。
ただでさえ見たくもない代物なのだが、少し視線をそらせば彼女にとって目の毒に他ならない、更に大きな壁が見えてしまうのだ。
彼女の斜め前に立てかけられた図画板、その上には同じケント紙が挟まっているが、明らかに絵里子のそれとは違う。黒々とした鉛筆の粉が、忠実にベランダからの風景を再現している。デッサンに一寸の狂いもないのにかかわらず、樹木の濃い緑、空のぼやけたマーブル模様、それぞれ違う屋根の色が容易に想像できるほど表現力に富んでいる。
まるでそこの壁を切って窓を作ったかのように音やら空気やら幾つもの質感が感じられ、同じ中学三年生が描くとは到底思えない雰囲気を醸し出している。
「あいつ……」
その絵を見た瞬間、絵里子は心の臓を突かれたような感覚をおぼえた。
彼の絵に見入れば見入るほど、突かれた穴は深くなり、そこから垂れた黒い感情が腹に溜まっていくのが自覚できた。
(このままじゃあいつに負ける……)絵里子は静かに、あのときのことを思い出していた。
正確なデッサンを得意とする彼女は、これまであらゆる美術展で賞を取ってきた事が誇りだった。絵は大好きだったし、周りは手放しに褒めてくれるので、集中して何枚も描くことなど苦にならなかった。展示された自分の絵にリボンの花が付く度に、賞状の枚数が増える度に、周りのこの絵が霞んでいき、自分より上手く絵を描ける奴なんかいないと思うようになっていた。ちょうど去年の今頃、絵里子のクラスに、「あいつ」はやってきた。
「あいつ」の名前は美術展で何度も見ていたから知っていた。勿論リボンが付いた彼の作品もだ。彼は間も無く美術部に入り、絵里子と隣り合ってイーゼルを並べた。彼がペースを上げると、絵里子のペースは下がった。美術展では彼が必ず最優秀賞を取り、絵里子が必ず優秀賞を取るようになった。「あいつ」の作品はどれもただ技術があるだけに終わらず、才能を感じさせる美への繊細な感覚を持ち合わせていた。
絵里子は彼の絵を見る度、何とも言いようがない不愉快さを感じていた。何であいつにあるものが私にはないの、そもそもあいつが持っていて私にないものは何なの、と。
(このままじゃいけない……)
思い立ったように、再び絵里子は缶ペンに手を伸ばした。すっかり熱くなった蓋を空け、ステッドラーの2Bの鉛筆と元の色がわからないくらいに黒ずんだ練りゴムを取り出した。練りゴムの冷たさが手に心地良い。絵里子はそれまで伏せていた図画板を抱えて立ち上がり、何も描かれていないケント紙に長く露出した黒い芯を当てた。が、肩が、肘が、手首が動かない。右手はただ小刻みに震え、いびつな点を白紙の内に造るだけである。
「駄目だ、描けない…… 何で……?」
内心が口を突いて出てしまった。しかし、彼女はそれに気づいていない。
鉛筆を持つ手に無意味なほど力が入る。弱々しい黒い点が、次第に濃さを増していく。
黒が一番深くなってきたその瞬間、
――ぱきり。
芯がケント紙を滑り降り、灰色の床に吸い込まれ、更にからだを二つに折った。
その片割れはころころと、「あいつ」の絵の方に向かっていった。
「……あ゛ぁああぁぁああぁぁっっ!!!!」
絵里子は叫びだし、青い鉛筆と図画板を床に叩きつけた。
カラカラと鉛筆が転がる音が、その拍子にもう一つの図画板が倒れる音が、吹奏楽部の連中が一瞬演奏を止めるのが聞こえる。彼女は身体を震わせながら、じっと下を向いていた。耳に垂れ流れる虚しい音を聞きながら。
「違う、私はそんなんじゃない、だって私いつも一番だったじゃん、ほんとはあいつなんかより、ずっと……」
「どうしたの、明石さん」
振り返った先には、「あいつ」、海川晶の姿があった。あまり関わりたくはなかったが、一瞬、目が合ってしまった。異様に澄んだ黒い瞳に彼女の容が映っている。嫌な汗が背中に流れた。
「何か凄い叫び声がしたんだけど……明石さん普段そんな声出さないのにさ、どうかした?」
「いい加減人の名前くらい覚えてよね、私の苗字は『明石』じゃなくて、『赤石』!」
「で、どうかしたの、赤西さん」
「赤石っちゅーとるがな!!」
一年前に出会って以来、晶はこうして絵里子をからかい続けている。
ただでさえそれは彼女にとって不愉快なのだが、最も辛いのはそうする彼の素振りだった。
「ね、吹奏楽部の人たちに言ってそっちのベランダ貸して貰わない?」
「いいよ、五月蝿いだけだし」
「あっちの景色もいいと思うよ。まぁ俺はそんな好きじゃないんだけど」
「知らないよ。私はここで描く。ここで描くって決めたんだから」
「……そうか」
そのあと、少し沈黙があってから、
「……ねぇっ」 絵里子は再び口を動かした。
「私の絵、どう思う?」
「へ?」
「だからあ、どう思うかって……」
晶に背を向けたまま、絵里子は尋ねた。晶は彼女のうなじを見つめながら言った。
「……多分、赤西さんの思ってる通りだと思う、多分ね」
「そう…… って、まぁた苗字間違えてるっ!」
これまで似たような質問を彼にぶつけ続けてきたが、いつも似たような答えを返す。
未だに、彼の本心は読めていない。
「そうだ赤井さん、飴舐めない?こっそり持って来ちゃった」
「だから私は『赤石』だって! 飴は持って来ちゃいけないんじゃないのっ!?」
「まぁいいじゃん、食べようよ。ブドウとモモどっちがいい?」
――絵の話位してよ。
きっとスケッチが完成しても、この苛立ちは消えそうにない。
白い図画版を抱えながら、絵里子は口いっぱいに広がる甘酸っぱさの消し方を考えていた。
To Be Continued?
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